由利カオル

目標週一 実質月二 エッセイなど

#3「汝、怒りを忘れるな(メメント・ムカムカ)」

 

 

「Oさんはコロナでオトコ掴んだよな。ほら、マスクで顔半分隠れてるから」

 外したとこ見たら違いすぎてビビる、と男の先輩がにや、と笑う。ヒヤ、と耳の先が冷たくなり、ざら、と心臓を無数の棘で撫でられたような不快さが胸一杯に広がる。結婚の経緯は彼女とそのパートナーにしかわからない。だが、4月1日の初出社日、右も左も分からない私に声をかけてくれたのはOさんだけだった。

 家に帰ってベッドに横になると、ぼろぼろ涙が溢れた。全てが悔しくて腹立たしいのに、声を上げられなかった自分が情けなかった。

 

 

 最近、周りのちょっとした言葉が気になる。

 例えば、見つからなかった物がすぐ目の前にあった時に家族が発した「障害者かよ」という揶揄。海外ドラマでゲイの犯人が元彼に対して鬼気迫る顔で復縁を求めた時の「怖っ」という姉の呟き。(当然、男女のカップルのシーンに対しては一度だってそんなことを言うのを聞いたことがない)

 そういうものを耳にした時のヒヤ、と冷たくなって、ざら、と心臓を撫でられるその感覚を、少しずつ言葉にしようと試みている。

 どうして、私たちの作る社会が十分なサービスを提供できていないせいで不便を被っている人々を「障害者」という言葉で嘲笑うのか。どうして、男性同士のカップルは「怖」くて、女性同士のカップルなら「エモい」で終わるのか。さっきの飲み会だってそうだ。女性は男性に美醜を評価されるものだと、誰が決めたんだ。

 

 ……とまあ、ここまでは長い前置きで、本題はこういうことを話した時に返ってくる、

「あなたって、よくもまあいろんなことに怒るね」

 という反応についてだ。それらは大抵、好奇や呆れの視線と共に目の前に現れる。あなた自身のことじゃないのに、よくもそんなに怒れるね、と。確かに私自身が見た目をどう言われた訳ではない。今のところ体に不自由はなく、セクシャリティもマジョリティ側に属している。

 世の中でも、常に怒っている人間に対して向けられるのは大抵が冷笑だ。自分で自分の機嫌を取れるのが良い大人、なんてキャッチコピーが蔓延り、コンビニには「頑張った私へのご褒美スイーツ」が並ぶ。

 別に、それが常に悪いという訳ではない。ただ、この社会はあまりにも「怒り」をぞんざいに扱いすぎていると思うのだ。怒ってもいいこと、怒らなければいけないことは、確実にある。

 そう思うようになったのにはきっかけがある。

 

 大学生の時、米軍基地問題の演習を取ったのをきっかけに、沖縄へのフィールドワークに参加した。もちろん米軍基地問題に興味はあったけれど、半分くらいは初めての沖縄に浮かれていたかもしれない。

 そこで、あるリゾート地を訪れた。北部の国頭村に存在する「奥間レスト・センター」だ。日本に滞在する米軍兵士のための保養所で、美しいビーチに白い砂浜がよく映えていた。敷地内にはキャンプ場やレストラン、ゴルフ場なども入っている。

【実際に行った方の写真・ブログ↓】(スマホを変えた時に写真を残していませんでした)

https://mainichibeer.jp/okumabeachfest/

 本来は米軍人やその家族のみが利用できるのだが、沖縄在住の人が同伴であれば、一緒にゲートを通って中に入ることができる。音楽フェスなどが開かれる時にも一般の住民を招くと、民泊先のおじさんが言っていた。

 私はなんとなく、「共生」を感じて欲しくてこのリゾートに連れてこられたのだと思った。米軍人と沖縄住民が一緒に音楽を楽しむ。いいじゃないか、喜ばしいことなんじゃないかと。優等生的な答えを出そうとする悪い癖だ。

 中のスタバで友人と一緒にナントカフラペチーノを飲み、英語のレシートにはしゃいで外に出た時だった。カフェの外で、女性教授と民泊先のおじさんが立ち話をしていた。そのまま通り過ぎるのもと思い、留まっていると教授の顔がぐるん、とこちらを向いた。

「ねえ、腹立たない?」

 えっ、と固まった。その問いかけは余りにも突然で、私は空腹か尋ねられたのかと一瞬戸惑った程だった。固まったままでいると、教授は返答を求めていなかったのか、海の方に視線を投げながら息巻いた。

「私はすっごく腹が立つ。このビーチはね、沖縄で一番綺麗な海なんだよ。それを代々受け継いできた沖縄の人達じゃなくて、米軍が使ってる」

 びっくりして、何も言葉が返せなかった。教授は沖縄を専門に研究している訳ではなく、沖縄出身という訳でもない。でも、怒っていた。この海を観光資源として十分に使えたはずの誰かの代わりに。監視カメラに認証されなくても、祖父母から受け継いだ美しい浜辺で子どもを遊ばせることができた誰かの代わりに、怒っていた。

 「そんなことで」怒っていいんだ、とその時初めて気がついた。

 

 今先生をしている人、あるいはアルバイトで塾の先生などを経験した人にはよく分かってもらえると思うが、何かについて「怒る」には物凄いエネルギーが必要だ。しかも、そのエネルギーは問題の当事者であればあるほど大きくなる。

 だから私は、自分が不条理に巻き込まれた時に、誰かに一緒に怒ってほしい。「私もおかしいと思う」と声をかけられ、孤独でないことを力にしたい。いわんや、「そんなことで怒るな」なんて怒らなくて済んでいる人には言われたくない。

 だって、何かに怒らなくていい人は、常に問題の強者だ。同じ能力でも、女性より早く出世する男性。階段だけしか設置しないことで「不要な」「コスト」を削減できている公共交通機関。米軍基地を沖縄に70%押し付けることで成り立っている日本の安全保障。

 たとえ今は怒らないでよくても、いつか事故に遭って体が思う通りに動かなくなるかもしれない。あるいは自分の子どもや、親しい友人が不条理に立つかもしれない。そう想像した未来で、「そんなことでよく怒るね」と言われる側になるのは自分だ。

 

 毎日のニュースを見ていると、本当にぐったりすることばかりで、嫌になる。「国民」の虚像をでっち上げ、複数の国にルーツを持つ人間の多様性への想像を失わせるオリンピックを、政府は日本国民の生命のリスクと引き換えにしてでも「誰かの」平和と希望のためにやりたくて仕方ないらしいし、人間の価値を生産性で決めつけるどこかの国会議員は今も辞めずに差別発言を繰り返している。その全てに怒ることには疲れてしまうけれど、「怒ったってしょうがない」と諦めることだけは避けたい。いつだって、怒らなくていい人は、問題をそのままにすることで、利益を享受している側の人なのだから。

 汝、怒りを忘れるな。メメント・ムカムカである。

 そう言えば、少し前に読んだ『水は海に向かって流れる』(第24回手塚治虫文化賞新生賞受賞)も、もっと怒っていいんだよ、という話だった。全3巻で読みやすいので、もっと怒れって言われてもなあ、とぴんと来なかった人には刺さる話かもしれない。

 明日からまた労働だ。記事で怒れと言う割に次長の不条理に対してはまだ何も怒れていないが、それはおいおいということで、今日はここまでで許されたい。終わり。