由利カオル

目標週一 実質月二 エッセイなど

#7「わかりやすい人間になりたいというわかりにくい望み」

 

 最近、自分という人間のわかりにくさに嫌気がさしてきて、わかりやすい人間になりたいというわかりにくい望みばかり抱いている。ああもうこの文章さえわかりにくい。だが私が言いたいのは意味が分かりやすいという意味ではなくて、つまり何が言いたいかというと、他人に容易に理解される人間になりたい、ということだ。

 たとえば、その瞬間は職場の飲み会などで即座にやってくる。仕事以外の話となると、大体は恋愛と酒の失敗とスポーツ、あとは大学時代に何をやっていたかという話で、私はそのどれに対しても面白い話題を持たない。ヤバイ彼氏と付き合ったこともセックスの話題もなければ(というか、自分とパートナーの大事な話題を信頼していない相手の酒の肴として出す必要って何?)、お酒も弱くはないが自慢するほど強くない。というか、なんなんでしょうね。あの強いほうがいいという風潮。楽しく飲めればそれ以上のことはないのにね。スポーツも、本当に興味がない。応援している野球チームもない。もうおわかりとは思うが、学生時代も話題に出して盛り上がる部活やサークルはやっていなかった。どうでしょう、今社会人として生きる全世界の元文芸部員。お元気ですか。

 こういう感じで生きていても、本を読んだり、ゲームをしたり、音楽を聴いたり、人と話したりしてそれなり楽しく生きているのだが、会社の飲み会になると、なんだか自分から話すことも相手から何か聞かれることも少なくなり、有り体に言うと自分が「絡みづらい」人間であるように感じる。いわゆるマジョリティ側にほとんどの場合属してこなかった自分を憎くすら思う。この社会では、異性の恋人がいて、酒が強く、スポーツが好きで体育会系の、生まれた時から日本人の男性である方がずっとずっと、楽に生きていける。そこに属さない人間は愛想笑いを浮かべ、あるいは陰ながら努力して「社会なるもの」に迎合して生きていくか、それか白い目で見られのけ者にされても頑張って一人で生きていくかの2択しかないのだろうか。そうじゃないといい。少なくとも、私の次に生まれてくる人間にとっては。

 

 ところで、マジョリティとマイノリティという言葉をただ「多数派」「少数派」と訳すことが必ずしも正しいとは言えなくなってきた昨今、皆さんならどんな和訳をつけるのだろうか。上智大学の出口真紀子教授はマジョリティとマイノリティを決定するのは数の多さではなく「社会において特権性を有しているかどうか」だと言っていて、私もその通りだと思う。たとえば社会において男性と女性の数はほぼ半分だが、男性は女性より経済的に裕福で、社会的な立場も持ちやすい。

『平均給与』国税庁https://www.nta.go.jp/publication/statistics/kokuzeicho/minkan2000/menu/03.htm

『企業における女性の参画』男女共同参画局https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/honpen/b1_s02_02.html

(2021/7/11最終閲覧)

 男性が女性を差別しているとか、女性だけど女性で不幸だったことがないとか、そういうことは全く関係なく、「生きているだけで」社会には利益を享受する側と、搾取され、自動ドアが自分の前だけで開かない側の人がいる。とはいえ、特権性と対になる言葉は何かを表しづらいし、受益者と被搾取者というのも何だか物々しすぎて良くない気がする。良案を知っている人、思いついた人は私まで教えてください。

 

 人間というのは群れる生き物だから、群れるには自分との同質性が必要で、そうやって人は水蒸気と水蒸気がくっつきあって雨雲になるように社会を作っていくのだろう。それでもある日には小さな摩擦が積もり積もって雷が落ちたりするのだから、なんというか、どこも大変ですよね、なんて土砂降りの外を見ながら考えたりする。

 ああ、でも土砂降り、っていい言葉だ。どしゃ、という言葉には何もかも押し流して悩みもどうでもよくさせるような強い力がある。ただ、それに巻き込まれる命はどうでもよくないから足掻いて、抗って生きていくしかない。とりあえず、話題づくりにゴルフでも始めてみようか、と考えて雨の外を見て、やっぱり車を買うのが先だと思いなおす。「わかりやすい」晴れ模様になったら動き出そう、というところで、今日はここまでで許されたい。

 熱海の人々に祈りを込めて。終わり。

 

f:id:yurikaoru:20210711230013j:image(仙台旅行の帰り道で撮った青空を添えときます。)