由利カオル

目標週一 実質月二 エッセイなど

#8「三行半と三分半は似ている」

 

 

 これはYさん(仮名)の話なのだが。

 ああ、やってしまったなあ、という気持ちでとぼとぼ歩く。何を隠そう、告白をされたデートの帰り道である。付き合ってほしい、という勢いに押され、ウンと頷いた後に(ウン……?)と猛烈に後悔し始めた。私のウン……?ポイント(略してウンP)はこれまでもちょっとした日常会話の中に紛れていたのだが、まあ一つ一つは大したことではないかもしれないと自分に言い聞かせてあまり認めようとしてこなかった。それが告白に頷いた瞬間どっと不安となって押し寄せてきて、そしてよく考えなくとも、顔が好みではなかった。最低な話だ。

 お相手の方に大変申し訳ない気持ちになり、よく考えてから断りの電話を入れた。その時間、およそ二分半。日清カップヌードルの出来上がり時間より短い。ちなみに、これが初めてではない。前回は三分半で別れ話をした。当時の友曰く、「蒙古タンメンカップ麺より短い」。そう、あろうことか最高記録を塗り替えてしまったのである。 

<↑これはお湯を入れて5分。>

 なぜ短いかというと、意向のみを伝えるからだ。よくドラマや何かでは別れ話で揉めるカップルの演出を見たことがあるが、あれはやはり今後の演出で「まだ未練のある元カレ/元カノ」枠で再登場をするからなんだろう。怒りや不満を相手に伝えるのは相手に改善を期待しているからだ。人間、もう会うこともないだろう人間にかける言葉は案外何もない。前回の三分半、そして今回の二分半の別れ話の間も、頭はすっと冴えていた。江戸時代の離縁状は三行半で書かれたために三行半(みくだりはん)と呼ばれたが、きっとその三行少しをしたためる間も、きっと冷静だっただろうと思う。直前まではどう足搔こうが、終わりの瞬間、ただその瞬間だけは冷静である。

 

 後から顛末を聞いた友人曰く、「おまえは恋愛を舐めすぎ」だそうだ。

「動物だって生涯の伴侶を探すのに一生をかけるんだから、動物である人間がそんな適当に探して成功するわけないじゃん」

 この友人の語録は凄まじく、他にも、就活と同じ「活」が恋活やら婚活にもつくんだからもっと自分の軸を明確にしろ、だとか相手を駄目だと思うポイント(つまりウンP)と同じくらい自分が相手を良いと思えるポイントを持て、だとかもしかしてその道の人?というくらい参考になるアドバイスを頂戴した。友達だと思っていたが、どうやら師匠だったようである。そのうち松岡修造みたいな日めくりカレンダーが出てしまうかもしれない。毎日恋愛アドバイスの修造カレンダーはちょっと……いやかなりキツいが。

 それなりに恋愛なしで楽しく生きてきた人生なので、恋愛には苦手意識さえある。その上、必ずしも恋愛をしなくても幸せだよね、という風潮はありがたいことに少しずつ社会にも浸透しつつある。なのに何故マッチングアプリに手を出したのか。一貫性警察なる存在に取り調べられたら俯きながらこう答えるしかない。

「遊ぶ人欲しさに……あと楽になりたくて……」

 楽になりたい。書きながら、こうも素直に書けてしまうとなんだか情けない気持ちになる。このブログでも散々政治やナショナリズム、ひいては異性愛規範に噛みついてきたくせに、自分にもこんな気持ちがあったのか、と落胆したような、ほっとしたような気持ちになる。一度世の中の価値観に沿うように生きてしまえば、職場で恋人の有無について聞かれて話が盛り上がらず気まずい気持ちになることも、親から孫の顔が見たいなあ~と冗談めかして言われて申し訳ない気持ちになることからも解放される。(孫の顔云々は、他の人が言われていたら「あなたの人生なんだから、あなたが申し訳なく感じる必要なんてないよ」と言いたい。でも自分が言われたら、老齢に差し掛かる母を喜ばせてあげられないことをどうしても考えてしまう。独り身で生きていくことは、そのどうしようもなく感じる申し訳なさも抱えて生きていく覚悟を持つことなんだろうか。今は、ない。)

 別に革命児として全部に噛みついて生きたい訳じゃない。恋愛や育児に対する、ほどほどの憧れもある。何かに折り合いをつけるとしたらここだよなあという冷静な諦めと、ゆらゆら揺らぐ夜の水面のような希望を持って、また「いいね」ボタンを眺めている。

 そろそろ眠くなってきた。動物なのでもう睡眠欲を満たそうか。例の友人(師匠)からは「次別れ話が二分で終わったらそうめん茹でるしかないね」と言われた。叶うならばパスタ程度に延びるくらい、誰かに未練を持ってみたいものである。以上の話は私ではなくYさん(仮名)の話であることを確認して、今日はここまでで許されたい。終わり。

 ところでウンPって略す必要あった?