由利カオル

目標週一 実質月二 エッセイなど

#13「ディズニー共和国よ永遠なれ」

 過激なタイトルに似合わず穏健な記事なので、「過激思想の人!?」と思って記事をそっ閉じしようとしている方、どうか待ってほしい。

 人間社会に生きていると嫌なことばかりなので笹食って寝ているだけでちやほやされるパンダになりてえな……と願う日々を過ごしているが(読者の中にカリスマパンダの方がいたら申し訳ない)、そんな辛く苦しい日々の中でもたまには心がほかっとするような出来事があるものだ。私にとってそれは細い小道におけるすれ違いであったり、チカッチカと瞬く前の車のハザードランプであったりする。

 たとえば、夕方に自転車で会社から帰る途中にある細い道。そこは大通りのすぐ傍を走る歩行者用の通路なのだが、人二人がぎりぎりすれ違えるかどうかというくらい狭い幅しかない。そこの片側からぼうぼうと雑草が生えているものだから、俺は草で足を切られてもへっちゃらだぜ!という人以外は大抵安全にすれ違うまで片方が待つか、車道を走ることになる。当然、臆病な人間の代表格である私もチャリを漕ぐ足を止め、向かいの人が申し訳なさそうに小走りでこちら側に渡ってくれるのを(いいんですよ走らなくて……)などと思いながら待つ。

 そんなある日、中学生の群れとすれ違った。チャリンコの中学生の群れというのはただでさえアブナイ・ウルサイ・コワイの三拍子な上、前二人は猛将ばりに前後の陣を器用に敷いて会話に熱中していた。労働から帰宅途中の私が(いいんだよはしゃぎな……)と燃え尽きた心で待っていると、最後尾にいた男の子と目が合った。ん?と思ったのも束の間、少年はすれ違い間際に私にぺこりと頭を下げた。待っていてくれてありがとうございました、のサインである。これには燃え尽きていた社畜の心もンマァ~~~~!!となりその子の兄弟家族親戚中に教えて回りたい気持ちになったのだが、さすがに不審者過ぎるのでやめた。当たり前だ。

 ほかにも進路変更しようとする車を受け入れた時の「チカッチカ」と光る後ろのハザードランプ。あれもいい。どんなに無理に割り込みしようとした車でも、あれをしてくれるだけでしょうがないなあと許してしまえる力がある(もちろん、無理な割り込みは危ないのでしないに越したことはないのだが)。

 こうして思うと、世の中には「ありがとう」という言葉は普遍的な言葉として受け入れられているものの、思っているよりも誰かの「ありがとう」を受け取る機会は少ないのだなあと気が付く。それが赤の他人からのものであるなら特にだ。会社の同僚、家族や友人、恋人からの「ありがとう」もとても嬉しくなるものだが、赤の他人から示される感謝にはまた別の成分の心の栄養価があるような気がする。突発的で、直前の自分の行動の対価として貰える「ありがとう」には、未知の誰かに同じ社会に生きていることを認められた連帯の喜びがある。私たちは孤独な生命体で、家族や友人や、名前のついた関係性の人とでないと繋がりを築けない不安に常に苛まれているけれど、たまには名前の知らない誰かと善意をやまびこのようにして認め合うことができるような、そんな気がする。

 ディズニーの好きなところを発表すると大抵周りの人に変な顔をされるのだが、パークの中で手を振り合う来場者達が好きだ。そこでは、見ず知らずの人という恥じらいも遠慮もなく、あるいは手を振ったら振り返すというマナーが決まっている訳でもない。誰かが手を振ったらほほえみの中で振り返してくれるという暗黙の了解が安心感となってアトラクションに並ぶ列の人たちを包み込んでいる。

 ああ、ディズニーに行きたい。むしろディズニーがこの国だったらいいのにな。などと思うがあの国は一日8000円余りを払える経済的な余裕と非日常を楽しむ精神的余裕のある人民しか入国できないので、結果的に人々は争わず夢の国が守られている訳である。ボキッ。急に現実に着地したことで足首を挫いた。でも、さっき言ったような善意の繋がりだとか非日常な夢の世界が現実には感じられないからこそ、やっぱり人はディズニーを目指すんだろうな。全ての道はディズニーに通ず。ディズニー共和国よ永遠なれ。

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(3年前に行った時の写真が残っていた。マスクなしで盛り上がるパレードに胸がじんとなる。)

 さて、実は私事ですが上司が変わり、ウキウキである。新しい上司の様子は窺い中だが、どうか前の上司よりマシでありますように……と祈りを捧げる毎日である。今日も寝る前に会社の方角に祈りを捧げて、今日はここまでで許されたい。終わり。