由利カオル

目標週一 実質月二 エッセイなど

#15「母が偉人で父が無賃運転手であった頃」

 

 

 最近、車というものがいやに好きになってきている。その事実を噛み締める時、まるで自分の知らなかった一面を知るような、不思議な気恥ずかしさと嬉しさに包まれる。

 というのも、少し前までの私は大の車嫌いを声高に主張してやまない一派だったからだ。父親の車に乗せられていた頃、車は乗り物酔いを引き起こす代償に目的地へ届けてくれる悪魔の箱であり、その証拠に妙な異臭がした。微かに漂うガソリンの、あの外では絶対にしない臭いが、酔いと車への憎しみを増長させた。そんな存在である車を手に入れたのは、もちろん憧れや自慢のためであるはずがなく、①仕事で使う時の練習、②地方の移動手段が自転車orバスは辛い、という大変実利的な理由からだった。なので購入の際も大した拘りもなく、一緒に中古車販売店に来た父の方がよっぽど車選びを楽しんでいるんじゃないか、と思ったくらいである。

 この父というのも、不可解な存在であった。父は一般的なサラリーマンで、平日は働き土日は休む生活をしていたのだが、その一週間の七分の二という貴重な休日に私の習い事で送り迎えしたり、色んな教室や公民館でものを教える仕事をしている母専属のタクシー運転手(※無賃)になったりしていた。それだけではなく、家族でたまには旅行に行こうか、という話になっても父親は断固として車で行きたがった。新幹線やら飛行機やらより安い、という理由で半日かけて一人で京都まで家族三人を乗せて運転したこともある。その時は朝三時に叩き起こされ、眠い目を擦りながら一家で荷物を詰めて車に乗り込んだ。どう見ても夜逃げの光景であった。

 その時も「ようやるな」と思った娘であるが、大体は父親のけちんぼな性格に由来しているとはいえ、それだけではなかったのだなあということを、車を運転する側になって初めて実感しつつある。車を運転するのは、一言で言ってしまえばとても楽しかったからだ。なんというか、車には人間の根源的な快感が内包されている気がする。私たちは自分の足の長さ分しか歩いても進まず、走らなければ出せるスピードは時速五キロ程度。自転車に乗ればもっと早いが、結局それもペダルを踏んで時速二十数キロが関の山だ。でも、車はペダルを踏むことで簡単に「超人的な」スピードで走ることができる。万能感。優越感。雨や雷に左右されることもない。天候さえ超越した安心感。

 おまけに、電車やバスでは行くことが難しかったどこへでも、思うがまま向かうことができる。その気持ちよさたるや、初めてひでんマシン「そらをとぶ」を使えるようになったポケモントレーナー並みである。

(ところで、最近のポケモンはひでん技の概念がなくなり、自分のポケモンにはバトルで使える技しか覚えさせる必要がなくなった。いあいぎり(タイプノーマル・威力50)とかいうバトルにおいてのウンチ技を覚えさせずに済み、冒険の不便さが和らいだといえば確かにそうなのだが、あの不便さと反比例して生み出される、自分のポケモンと一緒に冒険している実感、自分のポケモンが次の道を切り拓いてくれる喜びは遠くなってしまったように思う。私のビーダルLv.15【わざ:いあいぎり なみのり かいりき ロッククライム】は元気だろうか。今度発売するリメイク版のブリリアントダイヤモンド・シャイニングパールでも彼にまた会いたい。)

Together

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ロッククライムほら乗り越えたら~グッグッスマ~♪

 

 掌で豆腐を切っていたあの日、母は偉人だった。何故かとてもよく覚えているのは、その時の私が反抗期の入口であったからだろう。小学校中学年の生意気盛りの私は冷蔵庫に飲み物を戻しに台所へ行く途中、掌の上で豆腐を切る母の姿を見て飛び上がった。

「え!? 何してるの、手切るじゃん!」

 慌てる私の声を聴いて、母はぐつぐつ煮えている鍋とその上の掌に乗った豆腐から目を逸らさず、噴き出すように笑った。

「切らないよ。豆腐はこうやって切るの」

「なんでそんなことすんの!?」

「これだったら、豆腐手に出して、切ってそのまま鍋に入れられるでしょ」

 三秒ぐらい固まってから、私は「……おぉ~」と声を出した。勉強に口煩い母に反発していたので言葉にはしなかったがこの感嘆符は「すっげぇ……」という意味がこもっていた。この時ばかりは、母が伝記に載っている発明家のように思えたのだ。

 今一人暮らしをして同じ方法で豆腐を掌の上で切って鍋に入れてみているのだが、これが案外難しい。まっすぐ切れないので、なんだか後ろの方が薄っぺらい豆腐が混入しがちである。あんなに簡単そうに見えたのになあ、と首を捻るばかりだ。自分の車を運転するようになって、後部座席に乗っていた頃の父が少しずつわかり始める。かと思えば、わかっている気になっていた母のことがわからなくなったりする。

 ただ、沁みるように理解するのは、「わかる」瞬間が即座に訪れるように世界はできていないんだろう、ということだ。物理的に離れたことで現在は円満にやっている両親に一つ屋根の下で暮らしていた中高生の時に向けていたあの息苦しさ、あの憎しみが間違いだったとは思わない。小学校で習う歴史が高校や大学で習う切り口では全く違うように理解できることも学ぶ喜びだし、やっている仕事が何に役立っているかよくわからない箇所も違う仕事をすることで繋がってわかるようになる、と言われたことも、今では確かに、と思う。最近はそんな感じの日々です。

 どうしよう。まだぴちぴちの若者なのにこんな老成した文章を書いてしまった。このままでは婆になった晩年には年を追い越しすぎて死んだ後の未来のSF記事を書いているかもしれない。いや年とっても文を書いているかはわからないけれども。まあいい、今日はここまでで許されたい。終わり。

 

 

#14「読書とヨリを戻した話」

 

 

 読書の秋である。常々思っていたが、食欲の秋とかスポーツの秋とか、秋につける言葉を考えた人はよっぽど秋のことが好きだったんだな、という感じがする。四季の中で一番贔屓していると言っても過言ではない。「昼寝の春」とか、「滝汗の夏」とか、「布団から出られずの冬」とか、いろいろ他の四季にも付けられそうな修飾語はあるのに、目に見えて秋のものが多い。というか食欲に限っては、年中無休であるのに、わざわざ秋につけている。今日はその欲張りで愛された秋、に冠せられた読書の話だ。

 本が好きな子、本が嫌いな子、それぞれいると思うが、どちらかと言えば私は、とても本が好きな方の子どもであった。読み聞かせやら何やらを経て、小学校三、四年生の時に図書室の本を多く貸りた人ランキングで三番くらいに入ったのをきっかけに我武者羅に本を読み耽った。ちんけなきっかけだが、自分が沢山本を読んでいると認められることが嬉しく、それでも学校で一番ではなかったことにもムキになっていた。一番ひどかった小学校高学年の時には行きの道で歩きながら一冊読み、授業中に一冊読み、帰り際に図書室で本を借りて読みながら帰っていたくらいだ。恥ずかしいし危険な小学生であった。生きていることに日々感謝である。

 しかしそれほど夢中になっていた読書も、高校生になり受験勉強のウェイトが重くなるごとに足が遠ざかっていた。受験という重苦しい審判から逃れるため、私が駆け込んだのはスマホゲームが妖艶に手招きするホテルで、読書が晩飯を作って待っていてくれる堅実なアパートではなかった。僅かなプレイ時間で報酬を与えてくれるゲームの快楽は凄まじく、ある時は審神者、ある時はアイドルのマネージャー、ある時はカルデア唯一のマスターになり、あの手この手で現実逃避した。ちなみに人理修復はセンター試験前の一週間で成し遂げた。親に見られたら泣かれる記事1位が決まった瞬間である。

 それから大学生になり読むのは学術に関わりのあるものばかりになり、更に趣味の読書なんて存在は遥か遠くの町の風景になってしまった。勉強の本を読んだ後、同じ体勢で趣味の本を読むかと言われれば、もう読まなかった。私にはもうNintendo Switchという愛人がいて、血の同窓会を数年後に控える三つの学級の生徒も、インクを撒き散らすイカも、やたらと褒めてくれる幼馴染兼ライバルもいたからである。

 大学生の時でさえそうだったので、社会人になれば猶更、労働に疲れた頭に活字が入るスペースはなかった。出勤し、退勤し、休日は一人暮らしに苦戦し、資格の勉強に追われ、残った時間でゲームにのめりこんだ。

 有り体に言えば、もう長い間、私と読書の関係は倦怠期であった。まるで熟年離婚秒読みの夫婦のように冷え切っていたのである。秋だけに……いやなんでもない。

 では、そんな状態だからといって私が家に置いてきた読書のことをいついかなる時間も忘れていたかと聞かれると、違う。むしろ読書から遠ざかれば遠ざかるほど読書が与えてくれた時間、安らぎ、没頭感、……全てを渇望し、読書しない罪悪感を抱くようになった。何せ、語彙が減ったのだ。文章を書くのが趣味なのに、何か文章を書き連ねるごとに「これは前使った表現な気がする」「高校生の頃の方が上手く書けた」などと思い悩むことになった。体を脂肪でぶよぶよにさせ、床一面とっ散らかして初めて家を任せていた妻の重大さに気づく中年男よろしく、私は読書に焦がれるようになったのだ。

 今日、久しぶりに朝早く起き、家の掃除をした。一週間畳んでいなかった洗濯物を畳み、天板を物が埋め尽くしていた机の上を片付けた。足裏に不快さを貼りつかせていた床を綺麗に拭き、ずっと閉め切っていた窓を開けた。秋の風が吹き込んで、晴れた空から降り注ぐ光は柔らかだった。時計の針はまだ11時半で、「今日しかない」と私は思った。買って開かないまま半年が過ぎたハードカバーを鞄に忍ばせ、テラスのあるカフェの、日の当たる席に座った。注文を取りに来た店員が去り、人々の囀る声がした。

 そっと表紙を開く。目次が目に飛び込んだ時、心臓が高鳴った。久しぶりに帰ってきた。そんな感覚がした。

 今、ブログの記事を一か月ぶりに更新している。話はこれで終わりだ。

 

 

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#13「ディズニー共和国よ永遠なれ」

 過激なタイトルに似合わず穏健な記事なので、「過激思想の人!?」と思って記事をそっ閉じしようとしている方、どうか待ってほしい。

 人間社会に生きていると嫌なことばかりなので笹食って寝ているだけでちやほやされるパンダになりてえな……と願う日々を過ごしているが(読者の中にカリスマパンダの方がいたら申し訳ない)、そんな辛く苦しい日々の中でもたまには心がほかっとするような出来事があるものだ。私にとってそれは細い小道におけるすれ違いであったり、チカッチカと瞬く前の車のハザードランプであったりする。

 たとえば、夕方に自転車で会社から帰る途中にある細い道。そこは大通りのすぐ傍を走る歩行者用の通路なのだが、人二人がぎりぎりすれ違えるかどうかというくらい狭い幅しかない。そこの片側からぼうぼうと雑草が生えているものだから、俺は草で足を切られてもへっちゃらだぜ!という人以外は大抵安全にすれ違うまで片方が待つか、車道を走ることになる。当然、臆病な人間の代表格である私もチャリを漕ぐ足を止め、向かいの人が申し訳なさそうに小走りでこちら側に渡ってくれるのを(いいんですよ走らなくて……)などと思いながら待つ。

 そんなある日、中学生の群れとすれ違った。チャリンコの中学生の群れというのはただでさえアブナイ・ウルサイ・コワイの三拍子な上、前二人は猛将ばりに前後の陣を器用に敷いて会話に熱中していた。労働から帰宅途中の私が(いいんだよはしゃぎな……)と燃え尽きた心で待っていると、最後尾にいた男の子と目が合った。ん?と思ったのも束の間、少年はすれ違い間際に私にぺこりと頭を下げた。待っていてくれてありがとうございました、のサインである。これには燃え尽きていた社畜の心もンマァ~~~~!!となりその子の兄弟家族親戚中に教えて回りたい気持ちになったのだが、さすがに不審者過ぎるのでやめた。当たり前だ。

 ほかにも進路変更しようとする車を受け入れた時の「チカッチカ」と光る後ろのハザードランプ。あれもいい。どんなに無理に割り込みしようとした車でも、あれをしてくれるだけでしょうがないなあと許してしまえる力がある(もちろん、無理な割り込みは危ないのでしないに越したことはないのだが)。

 こうして思うと、世の中には「ありがとう」という言葉は普遍的な言葉として受け入れられているものの、思っているよりも誰かの「ありがとう」を受け取る機会は少ないのだなあと気が付く。それが赤の他人からのものであるなら特にだ。会社の同僚、家族や友人、恋人からの「ありがとう」もとても嬉しくなるものだが、赤の他人から示される感謝にはまた別の成分の心の栄養価があるような気がする。突発的で、直前の自分の行動の対価として貰える「ありがとう」には、未知の誰かに同じ社会に生きていることを認められた連帯の喜びがある。私たちは孤独な生命体で、家族や友人や、名前のついた関係性の人とでないと繋がりを築けない不安に常に苛まれているけれど、たまには名前の知らない誰かと善意をやまびこのようにして認め合うことができるような、そんな気がする。

 ディズニーの好きなところを発表すると大抵周りの人に変な顔をされるのだが、パークの中で手を振り合う来場者達が好きだ。そこでは、見ず知らずの人という恥じらいも遠慮もなく、あるいは手を振ったら振り返すというマナーが決まっている訳でもない。誰かが手を振ったらほほえみの中で振り返してくれるという暗黙の了解が安心感となってアトラクションに並ぶ列の人たちを包み込んでいる。

 ああ、ディズニーに行きたい。むしろディズニーがこの国だったらいいのにな。などと思うがあの国は一日8000円余りを払える経済的な余裕と非日常を楽しむ精神的余裕のある人民しか入国できないので、結果的に人々は争わず夢の国が守られている訳である。ボキッ。急に現実に着地したことで足首を挫いた。でも、さっき言ったような善意の繋がりだとか非日常な夢の世界が現実には感じられないからこそ、やっぱり人はディズニーを目指すんだろうな。全ての道はディズニーに通ず。ディズニー共和国よ永遠なれ。

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(3年前に行った時の写真が残っていた。マスクなしで盛り上がるパレードに胸がじんとなる。)

 さて、実は私事ですが上司が変わり、ウキウキである。新しい上司の様子は窺い中だが、どうか前の上司よりマシでありますように……と祈りを捧げる毎日である。今日も寝る前に会社の方角に祈りを捧げて、今日はここまでで許されたい。終わり。

 

 

#12「瞬発力を鍛えろ!〜ストレス社会人編〜」

 

 

「瞬発力が足りない!!!!!!!!!!!」 

 昨今のオリンピックや子供向けシューズの販促ではなく、私的な日常の話である。

 自分で言うのもなんだが、いやなんすぎるのだが、人に優しいね、と評されることが多い人生であった。家庭内で末妹として育ったことで身についた顔色窺いスキルと言うべきか。電車に乗って、目の前に席が必要そうな人がいれば譲って感謝され、美味しいと思う食べ物も、他の家族の分を残しておけば「優しいね」と褒められる。なんだかんだと、優しさが美徳とされる世の中で、うまく立ち回ってきた自覚がある。

 もし優しさに純度100%果汁みたいな表示があるとすれば、私の優しさの成分表示は6〜7割が「こうすれば相手が喜ぶだろう」という想像と残りが「こうした方が回り回って自分にとって得だろう」という打算でできている。電車で席を譲るのも、それが美徳な社会であれば、自分の体調が悪い時に誰かが席を譲ってくれるかもしれない、という期待と祈りを込めている、と言うこともできる。

 不思議なことに、そんな不純物混じりの素振りで外側に貼り付いていたはずのアルミ箔でも、何度も繰り返すうちに、くちゃくちゃに固まって自分の芯になる。そして時々、その凝り固まった優しさに自分が閉じ込められて息苦しくなる。

 

 どんな職場にもムカつく上司や同僚の1人や2人や50人や100人やいることと思うが、皆さんはあまりにムカつくことを言われた時にどうしているのだろうか。

 例えば、期日の近い仕事をしている時に、新しい仕事を振られそうになって断った時。「それはあなたの仕事を私がやるってこと?」と言われて。

 例えば今まで教えられていなかったことをできないと素直に報告した時。「こんなこともできなくて恥ずかしくないの?」と言われて。

 優しさ美徳内面化人間の第一弾の反応はどうなるかというと、まずそういうことを言う人にびっくりする。そして第二弾の反応として「アッハイ」と声が出てしまう。第三弾、相手が去ってからようやく(なんだ今のムカつくな……)になるのだ。

 「あなたとか私の仕事じゃなくてチームの仕事なんだからつべこべ言わずやれーーっっ」とか。「全然恥ずかしくないが?? それモラハラですか?」とか。即座に言えれば良かったのだが、優しさ素振りが通貫しすぎて、ムカつく言葉にムカつく言葉で返す瞬発力が完全に鈍ってしまっている。

 結果ムカつきすぎて家帰ってからキレまくったりキレすぎて泣いたりしているのだからこちらが擦り減っているので、これは良くない状況である。

 子どもの頃、優しさは常に大切で、発揮されれば発揮されるほど良かった。でも社会人になって感じるのは、人の心の、優しさの容量には限りがあって、不要な人に振り撒く余裕も必要もないということだ。仕事なのだからやるべきことはやるのだし、それは好かれたいとか嫌われるとかとは全く関係のないことだとある程度は割り切らなければいけない。チクチク指でつついてくる人の指をカミツキガメのようにガブっと噛み付く瞬発力も、自分の心の容量を守るために大切なのだろう。

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 ……なんて悟ったように書いてはいるが、この前も先輩のどうでもいい電話に無駄に後輩としての気を遣い1時間半付き合ってしまった。いや、まあ、うん。ね。こうしていこうという方針が固まっただけでも、次の行動に影響することもあるわけだし。また月曜日が始まる。適度に切り替えをしつつ、今日はここまでで許されたい。終わり。

 

 

 

 

#11「死に場所を選べない僕らは」

 

 

 呪術廻戦やら鬼滅の刃やらヒット作の漫画を読んでいない。といっても、漫画は好きなので初めから読んでいなかった訳ではなく、途中で読むのをやめた。Not for meであることに気が付いたからである。

(ちなみに、こういうコンテンツの好き嫌いを話すと絶対に不快に思う人がいるので先に言っておくと、私があなたの好きな作品を好きじゃないからと言って、あなたや、あなたがそれを好きな気持ちを否定している訳ではない。同様に、私がそれを好まない気持ちを誰にも否定することはできない。)

  両者の共通点として、魅力的なキャラがどんどん死んでしまう、というのは思いつくが、同じく人がバカスカ死ぬ(!)進撃の巨人に特別忌避感を持つことはなかった。なんの差なんだろうな、と思っていたのだが、死の描き方の違いだろうか。進撃の死が突拍子なく、無惨に訪れる死だとすれば呪術や鬼滅の死は、「素晴らしい人生の結果としての死」である。誰かのために、世界のために、人生を燃やし尽くしたその絶頂に死は訪れる。読者は彼らの死に、生き様に心を打たれ、涙し熱狂する。

 なんだかそういうの、最近はちょっと辛いな、疲れたな、と思ったのである。素晴らしい死なんて、きっと現実世界には存在しない。この間、遠方に住む祖母があんまりにも酷い状態で危篤になった時、私は、祖母の最期がこんなものであってはならないと思ってさめざめ泣いた。祖母の目に最後に映る光景は娘や孫たちに囲まれたものであってほしいと思った。今は持ち直しているが、いつまた悪化するかはわからない。コロナのせいで会いに行けないのがとても辛い。

 そういう死を身近に感じたばかりだったから、コロナ禍の、いやそうでなくとも惨めな私たちの生身の死を遠ざけたくて、架空の世界にそれを求めてしまうのはグロテスクな感じがした。あと呪術は推しキャラ死んだし。

 

 ……なんて思っていたはずなのだが。この前、映画『ガタカ』を見て、私はユージーンのとった選択に涙し、苦しみ、結局見終わった後もそればかり考えていた。監督の意図は明かされていない。結末は各人の解釈に委ねられている。

  ユージーンは己の惨めさから逃れられなかった、という見方もできるし、彼の人生の絶頂は死の直前に来ていたのだという見方もできる。そして私は後者である、と思いたかった。彼は満足し、これ以上の喜びもなく老いさらばえる前に自分の期限を切ったのだ、と。思った後に、自分の内側にある「素晴らしい死」への憧れに打ちひしがれた。

 自分の中に、もし人生の絶頂が確実にあり、それが二度と来ないとすれば、そこで死んでしまいたいという願望が確かにあったのだ。いくらコロナウイルスが蔓延しているからといって、幸運と努力の成果として感染しなかった多くの人は、人生100年時代を生きていくことになる。恐らくベッドに横になったよぼよぼの状態で、人生最高!となっている可能性は1%未満だろう。数々の人生最高!を通り過ぎ、下り坂を転がりながら息を引き取る可能性の方が高い。なら絶頂の瞬間に終わってしまいたい。「素晴らしい死」を迎えたい。

 どうしてこんなに人間は死に意味をつけたがるんだろう。その答えになり得る話を、この前見たTRPG動画で精神科医の名越先生が言っていた。


(言及箇所は1:18:22辺りから。本編全て大変面白いのでフルでの視聴がおすすめ)

 名越先生曰く、「人間はサクリファイス(犠牲)を求めているんです。それは人間が、死の恐怖に打ち勝つ可能性を種族として担保しておきたいから」。

 それを聞いてふと、以前見た戦争ドキュメンタリーを思い出した。太平洋戦争中、「皇軍」として戦地に送られた朝鮮人兵士の数は約20万人。その生存者の方がインタビューにこう答えた。

「日本人の兵士はお国のため、天皇のために死ねたでしょう。でも私たちは誰のためにも死ねなかった。死ねなかったですよ」

 あまりにも重い言葉だったので、ここだけよく覚えている。誰かのために、何かのために死ぬことを許されなかったことの苦しみが、その言葉と表情に皺を作るように滲み出ていた。

 戦争の終結日、とされる8月15日も今年で76回目となる。私たち人間が自分で死に場所を選べなくなって久しいが、あの日の兵士たちがお国のために、と戦地に向かったのは洗脳的な軍国教育を受けたからというだけではなく、私たちの内側に隠されている、蠢いている「素晴らしい死」への憧れが戦争に結びついたから、とも言えるのかもしれない。

 その憧れに打ち勝つ術は、もう少し、ほんのもう少し先に「人生最高!」がまだあるはずだ、と自分を騙し騙し進んでいくことしかないのだろう。さっきはああ言いましたけど、1%くらいの確率で、よぼよぼのおばあちゃんの歳になってもスーパーメカニックサイボーグおばあちゃんになってる可能性もあるわけですからね。  

 

 そんなことを考えながらこの前洗濯物を干そうと網戸を開けたら、カサッという音と共に蝉が上から落ちてきた。「うわァッ」とリアクション芸人並みに飛び上がり、その後半泣きになりながら新聞紙に乗せて死骸を外に出してやったのだが、奴も静かな私の部屋のベランダを死に場所として選んだというなら許せる……訳がない。絶対許せん。人の家で死ぬな。皆さんも部屋を出る時は周囲に不審者と蝉が張り付いていないか気をつけてくださいね、と注意喚起したところで、今日はここまでで許されたい。終わり。

 

 

#10「孤独は回転寿司のレーンに乗ってやってくる」

 

 

 一人暮らしというのは一種の麻薬であり、一度進むと簡単には戻れない一方通行の道路のようなものだ、と思う。誰かに時間を縛られることはなく、ご飯も自分で作っていれば食べたくないものは出てこない。同居人に気を遣う必要はないし、家事も好きな時にやれば済む。あまりにも楽すぎて、もう一度誰かと同居する未来が訪れた時に、まるで50mバックで車を運転して入口まで戻るようなその徒労と緊張状態に自分が耐えられるのか不安になるくらいだ。

 よく友人に一人暮らしをしていると話すと「寂しくない?」と聞かれるが、私に限って言えば、一人暮らしをしていることそれ自体で寂しさを感じることはあまりない。家族や友達と電話すればその日あったことは話せるし、本当に恋しくなった時には実家に帰ればいいだけだ(勿論、今のコロナ禍ではそれも難しいけれど)。だから必ずしも一人暮らしイコール孤独、ではない。

 ところでよく孤独という単語は「孤独な」「孤独である」というように形容動詞的に使われるが、「孤独」本体とどちらが先に生まれた言葉なのだろう。英語でも”Lonely”と“Loneliness”は両方ある。「孤独な○○」が生まれるのが先か「孤独」が生まれるのが先か。これもある種の卵が先か鶏が先か問題なのかもしれない。まあ今考えたばかりだけど。

 これを読んだ人は各々で考えてもらうにしても、私の見解は「孤独/Loneliness」が生まれるのが先だっただろう、という方である。孤独は名詞であり、状態を示す言葉ではない。

 言ってしまえば、孤独はモノだ。そして、回転寿司のレーンに乗って流れてくる。

 

 

 子どもの時の自己紹介シートだとか、交換ノートだとかに何を書いていたのか、正直全く覚えていない。だが、いつしか私の好きな食べ物欄は「おすし」という平仮名三文字に定まっていった。お寿司はいい。特に好きなのはホタテ、はまち、ウニ軍艦。美味しい上に家では絶対食べられない特別感、あとはその価格のリーズナブルさから、我が家の外食先は回転寿司に決まっていた。何かいいことがあれば寿司を食べ、特にいいことがなくても月に一度は寿司を食べた。今では好きすぎて、醤油の匂いを嗅ぐだけで寿司への食欲が募るという寿司中毒/Sushi-Addictionを起こしてさえいる。

 だから一人暮らしをして遠方に住んでも、寿司への欲求は変わることはなかった。醤油の匂いを嗅ぐとお腹が空くし、疲れた日にはパック寿司をスーパーで買う。資格の勉強をしに行った帰りには、自分を褒めるつもりで回転寿司チェーンに寄り道することもある。けれど、回転寿司のカウンター席に座り、一人で注文して一人で食べているとぽっかりと胸に穴が開いたような感覚に囚われる。それが孤独とかさみしさという種類のものであるということに気が付いたのはつい最近のことだ。

 私にとって回転寿司は常に他人を伴うものだった。テーブル席に座り、前には姉がいて、通路側には親が座る。昔は父親がレーン側にいたのだが、いつしか父がレーンに流れてくるよくわからないネタを「お腹空いたから」という理由で取るのが許せなくなってから、レーン側は子ども二人で固めるようになった。まず期間限定のネタを注文し、次に家族が好きな定番ネタを頼む。世の中、皿の上の二貫を各自自分で食べて枚数を重ねていく家族も多いかもしれないが、うちの家は「色々な種類を食べたいから」という理由で、よく二皿頼んで四人で一貫ずつ食べていた。そうしていると「今日はこのネタ外れだったな」という時があっても姉とガッカリ感を半分こできたし、美味しいネタがあった時には大はしゃぎでもっと頼めた。

 でも一人でカウンター席に座り、一人で注文し、一人で黙々と二貫食べている限り、決してその時のように心が満たされることはない。回転寿司が一皿二貫で流れてくる限り、そいつは永遠に孤独を引き連れている。

 そういえば、食と孤独から発想するのは「孤独のグルメ」だが、主人公である井之頭五郎に私のようなしみったれた雰囲気がないのは、きっと空間や自分とのコミュニケーションを楽しんでいるからだろうな、と思う。井之頭五郎は、誰かと一緒に食べている訳でも居合わせた客と積極的に話す訳でもない。だが客や店主の動きを観察し、発声しない方法で何かを受け取り、その雄弁すぎる心の声で盛大に反応する。美味いものがあれば美味い!と心の中で叫び、思うことがあれば心の中でぼやく。誰かとのコミュニケーションだけでなく、空間や自分とコミュニケーションを大事にすることが、孤独のグルメへの近道である……のかもしれない。まあ今考えたばかりだけど。

 

 

  さて、もう7月も終わった。このブログも記念すべき10回目ですが、10回目だからどうということはないんですよね。

 いつも拡散してくれている人達、ありがとうございます。確実にアクセス数に反映されているので、めちゃくちゃ嬉しいです。はてなスターをつけてくれる人もありがとうございます。見てくれた上で面白がってくれている(と勝手に解釈してます)ことが伝わって大感謝です。読者になるボタンとか、ブログ用のtwitterもありますのでね。ぜひぜひ。

 ふう、10回目っぽさをようやくここで出せたぜ、と一息ついたところで、今日はここまでで許されたい。来週もよろしくお願いします。終わり。

 

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(↑これははま寿司の漬けまぐろ。一人で食べても結局は美味しいんだけどね。)

 

 

#9「永遠に許されない罪もあるということ」

 

 

 2021年7月23日PM8:00。57年ぶり二回目となる東京での夏季オリンピックが開幕した。2013年に開催地として選定された際には随分などんちゃん騒ぎだったはずだが、実際の開催が近づくにつれ明らかになったその失望に足るお粗末さは多くの人に知られる結果になった。特に開催直前に続出した大会関係者の辞任・解任騒動には特に思うことがあり、こうして筆を取っている。

 テーマは「永遠に許されない罪」についてである。

 

 ラーメンズが好きだ。もちろん、世の中に1億2千万人いるラーメンズファンに並ぶほど熱心という訳ではないが、私もラーメンズが、そして小林賢太郎さんが好きである。

 特に好きなのは「銀河鉄道の夜のような夜」。大学一年生の時、友達に勧められてYouTubeで見たこのコントに衝撃を受け、演劇というコント、いやコントとしての演劇の素晴らしさに夢中になった。

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 その大好きなネタを作った小林賢太郎さんが、23年前に作ったネタの中の「ユダヤ人大量虐殺ごっこ」というワンフレーズでオリンピック開会式前日にショーディレクターを解任された。

 このニュースには、その前に下劣な(としか言いようがない)過去のインタビュー記事で辞任に追い込まれた小山田圭吾氏に対するものとは違った反応が多々見られた。私の周りに彼のネタを愛している人が多かったというのも勿論ある。人間、愛している者には欲目が出るのは当然で、擁護したいと思う人の気持ちを否定するつもりはない。

 けれども、「作品の中のワンフレーズじゃん」とか「ネタが出された当時は駄目だという価値観が薄かった」とか、更には「いじめと違って当事者がもういないから時効」なんて言葉を見かけた時には、オイオイちょっと待ってくれ、と思う。

 まず、大前提の事実として、大虐殺の当事者とその家族は当然ながら現在も生きていることを確認したい。塵のように踏み躙られた600万人の命の中で、明日には「処分」される予定だったユダヤの人々が、その惨殺を笑いにできたコメディアンが平和の祭典に関わることをどう思うだろうか。あるいは、お母さんやお父さんが銃口を向けられ、そのまま引金を引かれていればこの世界に存在し得なかった子どもたち、生存者からその真実と恐怖を語り継がれた子孫たちは何を思うだろう。

 そして「不謹慎ネタだから」とか「当時のネタを今の価値観で裁くのが問題」と主張する人々に対しては、こう返したい。人間があの虐殺を笑いにできることは、過去も今も、そしてこれからもない、と。

 

 平和学習に訪れる前だったと思う。高校生の時、普段おどけた感じの物理の先生が引き締まった表情で言ったのをよく覚えている。

「原爆について、主語を間違えないでください。アメリカが日本に落としたんじゃない。人間が、人間の頭の上に落とせたことが、問題なんです」

 これはホロコーストにも、ひいてはいじめにも同じことが言えるのではないか。人間が、他の人間の尊厳を踏み躙った罪は決して、永遠に許されることはない。たとえどんな謝罪や償いが行われても、奪われた命や傷つけられた心は戻ってこないし、私たちの誰もがその罪を再び犯す可能性がある以上、誰にも笑う権利はない。

 というか、件のインタビューをした週刊誌もそうだが、何かが問題になった時に誰かが辞めて、それで終わりというのは非常に気持ちが悪いな、と思う。責任はその人だけでなく、その舞台・雑誌を作った人、供覧を止めなかった周りの人、販売されたものを買って笑った人たちの方にも確実にある。そしてそれは翻って、現代の私たちが何かを買い、何かを見る時にも発生する普遍的な責任だ。

 私にとって、「ユダヤ人大虐殺」は映画『シンドラーのリスト』の印象が強すぎるから、そのフレーズを聞いて目を閉じるだけで、燃えていく赤い服の少女が、手を振りながらどこへ運ばれるとも知らず焼却所に連れて行かれる笑顔の子どもたちが、そして煙突から雪のように舞う犠牲者たちの灰が、瞼の裏に立ち上がる。23年前、ネタを作った彼の瞼の裏には、何が浮かんでいただろう。それを笑った、人々の瞼の裏にも。

 もし何も浮かんでいなかったとしたら、それは日本の平和教育の完全なる失敗だよね、とかそのツケが2021年オリンピックで出てきてるんだよね、とか色々言い連ねることはできるが、キリがないのでここまでで許されたい。

 最後に。「当事者じゃないのに怒るな」という人には過剰な加害者叩きに加担していない限り、こう答えよう。メメント・ムカムカ。誰かのために怒ることには確実に意味があると。叶うならば、どんなフレーズを聞いても、瞼の裏に何かが立ち上がる人間になりたいものである。終わり。

yurikaoru.hatenablog.com

 

 

#8「三行半と三分半は似ている」

 

 

 これはYさん(仮名)の話なのだが。

 ああ、やってしまったなあ、という気持ちでとぼとぼ歩く。何を隠そう、告白をされたデートの帰り道である。付き合ってほしい、という勢いに押され、ウンと頷いた後に(ウン……?)と猛烈に後悔し始めた。私のウン……?ポイント(略してウンP)はこれまでもちょっとした日常会話の中に紛れていたのだが、まあ一つ一つは大したことではないかもしれないと自分に言い聞かせてあまり認めようとしてこなかった。それが告白に頷いた瞬間どっと不安となって押し寄せてきて、そしてよく考えなくとも、顔が好みではなかった。最低な話だ。

 お相手の方に大変申し訳ない気持ちになり、よく考えてから断りの電話を入れた。その時間、およそ二分半。日清カップヌードルの出来上がり時間より短い。ちなみに、これが初めてではない。前回は三分半で別れ話をした。当時の友曰く、「蒙古タンメンカップ麺より短い」。そう、あろうことか最高記録を塗り替えてしまったのである。 

<↑これはお湯を入れて5分。>

 なぜ短いかというと、意向のみを伝えるからだ。よくドラマや何かでは別れ話で揉めるカップルの演出を見たことがあるが、あれはやはり今後の演出で「まだ未練のある元カレ/元カノ」枠で再登場をするからなんだろう。怒りや不満を相手に伝えるのは相手に改善を期待しているからだ。人間、もう会うこともないだろう人間にかける言葉は案外何もない。前回の三分半、そして今回の二分半の別れ話の間も、頭はすっと冴えていた。江戸時代の離縁状は三行半で書かれたために三行半(みくだりはん)と呼ばれたが、きっとその三行少しをしたためる間も、きっと冷静だっただろうと思う。直前まではどう足搔こうが、終わりの瞬間、ただその瞬間だけは冷静である。

 

 後から顛末を聞いた友人曰く、「おまえは恋愛を舐めすぎ」だそうだ。

「動物だって生涯の伴侶を探すのに一生をかけるんだから、動物である人間がそんな適当に探して成功するわけないじゃん」

 この友人の語録は凄まじく、他にも、就活と同じ「活」が恋活やら婚活にもつくんだからもっと自分の軸を明確にしろ、だとか相手を駄目だと思うポイント(つまりウンP)と同じくらい自分が相手を良いと思えるポイントを持て、だとかもしかしてその道の人?というくらい参考になるアドバイスを頂戴した。友達だと思っていたが、どうやら師匠だったようである。そのうち松岡修造みたいな日めくりカレンダーが出てしまうかもしれない。毎日恋愛アドバイスの修造カレンダーはちょっと……いやかなりキツいが。

 それなりに恋愛なしで楽しく生きてきた人生なので、恋愛には苦手意識さえある。その上、必ずしも恋愛をしなくても幸せだよね、という風潮はありがたいことに少しずつ社会にも浸透しつつある。なのに何故マッチングアプリに手を出したのか。一貫性警察なる存在に取り調べられたら俯きながらこう答えるしかない。

「遊ぶ人欲しさに……あと楽になりたくて……」

 楽になりたい。書きながら、こうも素直に書けてしまうとなんだか情けない気持ちになる。このブログでも散々政治やナショナリズム、ひいては異性愛規範に噛みついてきたくせに、自分にもこんな気持ちがあったのか、と落胆したような、ほっとしたような気持ちになる。一度世の中の価値観に沿うように生きてしまえば、職場で恋人の有無について聞かれて話が盛り上がらず気まずい気持ちになることも、親から孫の顔が見たいなあ~と冗談めかして言われて申し訳ない気持ちになることからも解放される。(孫の顔云々は、他の人が言われていたら「あなたの人生なんだから、あなたが申し訳なく感じる必要なんてないよ」と言いたい。でも自分が言われたら、老齢に差し掛かる母を喜ばせてあげられないことをどうしても考えてしまう。独り身で生きていくことは、そのどうしようもなく感じる申し訳なさも抱えて生きていく覚悟を持つことなんだろうか。今は、ない。)

 別に革命児として全部に噛みついて生きたい訳じゃない。恋愛や育児に対する、ほどほどの憧れもある。何かに折り合いをつけるとしたらここだよなあという冷静な諦めと、ゆらゆら揺らぐ夜の水面のような希望を持って、また「いいね」ボタンを眺めている。

 そろそろ眠くなってきた。動物なのでもう睡眠欲を満たそうか。例の友人(師匠)からは「次別れ話が二分で終わったらそうめん茹でるしかないね」と言われた。叶うならばパスタ程度に延びるくらい、誰かに未練を持ってみたいものである。以上の話は私ではなくYさん(仮名)の話であることを確認して、今日はここまでで許されたい。終わり。

 ところでウンPって略す必要あった?

 

 

#7「わかりやすい人間になりたいというわかりにくい望み」

 

 最近、自分という人間のわかりにくさに嫌気がさしてきて、わかりやすい人間になりたいというわかりにくい望みばかり抱いている。ああもうこの文章さえわかりにくい。だが私が言いたいのは意味が分かりやすいという意味ではなくて、つまり何が言いたいかというと、他人に容易に理解される人間になりたい、ということだ。

 たとえば、その瞬間は職場の飲み会などで即座にやってくる。仕事以外の話となると、大体は恋愛と酒の失敗とスポーツ、あとは大学時代に何をやっていたかという話で、私はそのどれに対しても面白い話題を持たない。ヤバイ彼氏と付き合ったこともセックスの話題もなければ(というか、自分とパートナーの大事な話題を信頼していない相手の酒の肴として出す必要って何?)、お酒も弱くはないが自慢するほど強くない。というか、なんなんでしょうね。あの強いほうがいいという風潮。楽しく飲めればそれ以上のことはないのにね。スポーツも、本当に興味がない。応援している野球チームもない。もうおわかりとは思うが、学生時代も話題に出して盛り上がる部活やサークルはやっていなかった。どうでしょう、今社会人として生きる全世界の元文芸部員。お元気ですか。

 こういう感じで生きていても、本を読んだり、ゲームをしたり、音楽を聴いたり、人と話したりしてそれなり楽しく生きているのだが、会社の飲み会になると、なんだか自分から話すことも相手から何か聞かれることも少なくなり、有り体に言うと自分が「絡みづらい」人間であるように感じる。いわゆるマジョリティ側にほとんどの場合属してこなかった自分を憎くすら思う。この社会では、異性の恋人がいて、酒が強く、スポーツが好きで体育会系の、生まれた時から日本人の男性である方がずっとずっと、楽に生きていける。そこに属さない人間は愛想笑いを浮かべ、あるいは陰ながら努力して「社会なるもの」に迎合して生きていくか、それか白い目で見られのけ者にされても頑張って一人で生きていくかの2択しかないのだろうか。そうじゃないといい。少なくとも、私の次に生まれてくる人間にとっては。

 

 ところで、マジョリティとマイノリティという言葉をただ「多数派」「少数派」と訳すことが必ずしも正しいとは言えなくなってきた昨今、皆さんならどんな和訳をつけるのだろうか。上智大学の出口真紀子教授はマジョリティとマイノリティを決定するのは数の多さではなく「社会において特権性を有しているかどうか」だと言っていて、私もその通りだと思う。たとえば社会において男性と女性の数はほぼ半分だが、男性は女性より経済的に裕福で、社会的な立場も持ちやすい。

『平均給与』国税庁https://www.nta.go.jp/publication/statistics/kokuzeicho/minkan2000/menu/03.htm

『企業における女性の参画』男女共同参画局https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/honpen/b1_s02_02.html

(2021/7/11最終閲覧)

 男性が女性を差別しているとか、女性だけど女性で不幸だったことがないとか、そういうことは全く関係なく、「生きているだけで」社会には利益を享受する側と、搾取され、自動ドアが自分の前だけで開かない側の人がいる。とはいえ、特権性と対になる言葉は何かを表しづらいし、受益者と被搾取者というのも何だか物々しすぎて良くない気がする。良案を知っている人、思いついた人は私まで教えてください。

 

 人間というのは群れる生き物だから、群れるには自分との同質性が必要で、そうやって人は水蒸気と水蒸気がくっつきあって雨雲になるように社会を作っていくのだろう。それでもある日には小さな摩擦が積もり積もって雷が落ちたりするのだから、なんというか、どこも大変ですよね、なんて土砂降りの外を見ながら考えたりする。

 ああ、でも土砂降り、っていい言葉だ。どしゃ、という言葉には何もかも押し流して悩みもどうでもよくさせるような強い力がある。ただ、それに巻き込まれる命はどうでもよくないから足掻いて、抗って生きていくしかない。とりあえず、話題づくりにゴルフでも始めてみようか、と考えて雨の外を見て、やっぱり車を買うのが先だと思いなおす。「わかりやすい」晴れ模様になったら動き出そう、というところで、今日はここまでで許されたい。

 熱海の人々に祈りを込めて。終わり。

 

f:id:yurikaoru:20210711230013j:image(仙台旅行の帰り道で撮った青空を添えときます。)

 

#6「déjà vuのかたち」

 

 USJ任天堂エリアに、まだ行けていない。

 折角友人と年休を合わせて立てた大阪への旅行計画は未だ猛威を振るうコロナウイルスによっておじゃんになった。元々ゲームが好きなので、そのゲームの世界を再現したという任天堂エリアは夢の塊のようで、本当はすぐにでも行きたいし、どんな楽しみが広がっているのか調べたい。

 でも私は、一度も「USJ 任天堂エリア」を検索エンジンに入れたことがない。というか、極力情報が目に入らないように努力さえしている。

 雑談の中でこのことを話した先輩はおかしそうに笑った。

「楽しみでもそこまでするかなあ、普通」

 するんです。私はそう笑いながら、ある薄暗い博物館の四角のことを考える。だって「もう見た」と思ってしまうことほど虚しいことはない、そうでしょう?

 

 

 デジャビュという言葉はフランスから輸入された言葉だったな、ということを考える。既に見た感じ。既視感。それこそが私の、枯葉剤の影響を受けて産まれたベトナムの奇形児たちが並ぶ展示の前に立った時の、残虐に乾いた感想だった。

 ベトナムホーチミン市にある戦争証跡博物館の二階には、1955年から20年間続いたベトナム戦争中にアメリカ軍の散布した枯葉剤がどんなにベトナムの幼子たちの健康な未来を奪ったかということが何枚もの写真パネルを並べて展示されている。足のない子ども。指がくっついた子ども。目の潰れた子ども。名前と写真はセットのように整列し、見えない目で虚空を見つめている。

 冷たい人間だと思う。私はその子供たちの人生に思いを馳せるより、隔絶された一つの展示として足早に通り過ぎた。見ていられなかった。ショックを受けるゼミの学友がいる中で、誤魔化さずに言えば、「もう見た」と私は思った。アマルフィの海岸や自由の女神像をテレビや絵画で知っているのと同じで、私は会ってもいない彼ら・彼女らのことを知っていた。いつも、いつもこの四角い枠の中で。「ヒロシマ」や「クウシュウ」の写真を見る時と同じだ。

 手を握ればよかった、と思った。展示の出口、寄付を呼びかける箱の隣で小人症の少女がビーズのストラップが積まれたトレーの後ろに座っていた。私が居た堪れなさを感じるより前にそれを手に取り、紙幣を差し出せば彼女は応えてくれただろうか。その時触れただろう指の通り。肌の熱。皮膚の感触。それらは私を囲うdéjà vuの外へ連れ出してくれたのだろうか。

 

 

 ひとつ、とても印象深い思い出を書き記しておく。沖縄にフィールドワークに行った際、糸数アブチラガマを案内してもらったことがある。「ガマ」というのは自然洞窟のことで、第二次世界大戦末期の沖縄戦では住民や兵士たちが戦災から避難するための防空壕としても使われた。

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(公式サイトに360°パノラマがあるが、実際に訪ねた方が100倍雰囲気がある。行く際は予約が必要ですが是非。→ https://abuchiragama.com/)

 ガイドに付き従って行くガマは地中なので、薄暗い中、手袋をして懐中電灯をして降りて行く。中はじめじめとして足元はぬかるみ、最初は口に出さずともこっそり探検気分を味わっていた私も、友人たちも面持ちが硬くなっていった。ガイドの女性が、270mもの内部を歩きながら淡々と説明する。このガマには600人以上の負傷兵が運び込まれたこと。薬や包帯は常に不足し、医療の知識のないひめゆり学徒隊の女子学生らが足元の見えない洞窟内を必死で往復し看病にあたったこと。そして壕の最奥、懐中電灯を消してみてほしい、というガイドの声に従い、光を消す。

 そこには救いようのない、一面の闇が広がっていた。

「ここは破傷風患者や脳症患者の部屋……つまり、もう助かる見込みのない患者の部屋です」

 曰く、もうこの部屋にはひめゆりの女学生たちも近づくことはなかった。それでも「殺してくれ」と喚く声、「母さん」と繰り返す声たちが真っ暗な闇から響いていたという。

 その時の泣き叫びたくなるような衝撃と、逃げ出したいほどの恐怖を、三年経った今でも鮮明に覚えている。ツアーが終わり、出口で光が差した時にはほっとして、何か感想を共有しようものなら安堵と恐怖で年甲斐もなく涙が溢れ出す有様だった。

 それなのに、だ。見学が終わり、併設されている事務所兼センターの壁を指して先輩がぽつりと言った。

「どうして、平和が大切って言えるんだろう」

 指の方向の壁には、地元の小学生たちがおそらく平和学習でやってきた時の感謝状のようなものがびっしりと貼られていた。虹色の色鉛筆が使われてカラフルなそれらの中には「平和最高!」なんて楽しげな文すら見て取れる。

「このガマの惨状を見て聞いて、私ならこんなカラフルなものは描けない。なのにどうして、この子達はこういう言葉が使えるんだろう」

 

 

 生(なま)の悲しみ、生(なま)の怒り、というものについて、最近よく考える。それは当事者性という言葉とか、目の前にある不条理を「自分のものだ」と感じられる想像力とも言えるかもしれない。

 博物館に展示される写真たちの四角い枠は、きっと私が思う限り、その力を養うようにはできていない。

 平和教育というものを考える時、私は常にこの四角と格闘している気がするのだ。奴らは私に悲しみを強制する。怒りを強制する。「これを見て、あなたは悲しみ、怒るべきだ」と。だがそれは私の感情じゃない。生(なま)の心は揺さぶられない。だから感想文を書くなら最後の一文はこう。「戦争はダメで、平和は大切だと思いました、まる」

 あのセンターに感想文を送った小学生たちに虹色の色鉛筆を使わせたのは何だったのだろう。繰り返し共有される戦争経験によって、あるいは四角い写真たちによって「もう見た」という感覚で終わってしまうのなら、それは平和教育本来の目的を満たしていると言えるだろうか。

 戦争証跡博物館や平和記念資料館の意味が苦しみへの想像を生み出し、平和への希求を続けることにあるのなら、戦争を経験していない私たちが闘うべき敵はこの四角の中にある。そんな気がしてならない。

 

 

#5「昨日までのひやむぎにごめんね」

 私の世界に、数日前まで「ひやむぎ」は存在しなかった、と言ったら驚くだろうか。

 四月に引っ越しをするにあたり、お茶漬けやカレールーやらが実家から押しつけられた。その箱の中でそいつは眠っていたのだ。

 「ひやむぎ」とでかでかと書かれたパッケージ。下部には、涼しげな器に盛り付けられたいかにも「そうめん」な写真が付いている。

 私は当初、見慣れない袋があることに気がついたものの、特に何をするでもなかった。季節は肌寒いくらいで、「そうめん」を食べるにはまだ早かったからだ。そして棚に忘れ去られたままひと月が経ち、ふた月が経ち、じめじめした梅雨が訪れた。私はごく自然に麺を茹で、つゆを用意し、そうめんと同じくそれを茹で、そうめんと同じく食した。

 つるんとした喉ごし。モチモチのハリのある麺。言ってみればうどんとそうめんの合いの子のようなそいつの名前を、私はもう一度見た。

 ここで恐ろしい疑問が生じる。ひやむぎ、なる事象は昨日までの私の世界には存在していなかった。なのに何故実家からの荷物に入っている? その答えを探すため、調査隊(1人)は事情を知る関係者にコンタクトを取ることにした。

「ひやむぎ? お前実家で食べてたよ。ひやむぎだと知らずに」

 電話口であっけらかんと姉が言う。嘘だ、と漏らした声がスマホのスピーカーに吸い込まれていく。だってそうめんとは食感が全く違う。麺の太さだって、見た目で違うのがわかる。なのに私は白くて細い麺は全てそうめんだと思っていた。言ってしまえば、愛する恋人だと思って腕に抱いたうちの何度かは違う人間を抱きしめていたのだ。健気なひやむぎはそれに耐え、甘んじて受け入れてきた訳だ。すまない。すまない、ひやむぎよ。

 だからなんだよ、という話になる前にきちんとそうめんとひやむぎの違いについて話しておきたい。

 実はこの似通った二つの麺は歴史的にも異なる製法の、別々の麺だった。リケンのweb記事によると『小麦粉を塩水でこねて生地を作り、油を塗りながら手を使って細く延ばす麺が“そうめん”、平らな板と麺棒を使って生地を薄く延ばし、刃物で細く切る麺が“ひやむぎ”や“うどん”』らしい。

  https://sozairyoku.jp/column

 それが明治時代に入り製麺機ができると製造方法の違いが曖昧になっていき、今はJAS規格によって定められた1.7mmという太さの違いのみによって区別されることになった。

 そのことを思うと、つんと胸を刺すような悲しみに襲われる。言葉によって世界が分節され、認知されるという説を唱えたのはソシュールだが、この世界には私が名前を知らないことで「見えない」「存在しない」物や人々が沢山あることを知らされる。そのひとつが、私にとってのひやむぎだった。

 

 

 一方、名付けが持つ暴力的な異化の力についても忘れてはならない。

 仙台市東北歴史博物館という場所がある。つい先日旅行で訪れたここの常設展では、古代から現代にかけての歴史や遺物が東北地方にフィーチャーされて展示されている。

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 そこで何よりも私の心を掴んだのは奈良時代に「生み出された」蝦夷(エミシ)・伊治呰麻呂の乱の展示だった。

 エミシ、と聞いてどんな風貌の人々を思い描くだろうか。日本史を覚えている人は朝廷に従わない野蛮な民族、のように想像する人もいるかもしれない。しかし、東北歴史博物館の展示は入口の旧石器時代から縄文、弥生、古墳、そして奈良時代までを流動的な一つの流れとして描いている。人々は狩猟・採集をして生き、また農耕をしてムラという共同体へまとまる。それがクニとなり、権力を集中させ、中央集権国家へと変わっていく。そこで語られる「エミシ」とは、異なる民族などでは全くなかった。同じ島の違った地方に生きる、似たような生活をする人々に過ぎなかったはずだ。

 時の権力は、そうした人々に対し「エミシ」という蔑称をつけることで、自分の勢力下に組み込むための侵略を正当化した。東北歴史博物館は確かに「エミシ」が生み出されたものだと確かに記述している。

 その侵略の終盤に起こったのが780年、伊治呰麻呂の乱である。呰麻呂は按察使(当時の朝廷から送られてくる県知事的な役人)紀広純を殺し、東北支配の拠点であった多賀城を焼き払った。その知らせはすぐに平城京に届けられ、支配が磐石だと信じ切っていた貴族たちを震え上げさせたという。

 展示を見ていた私には、伊治呰麻呂の乱がまるで当時の人々のやる方ない憤りの噴出であるかのように感じられた。異民族として扱われ、暴力を振るわれ、従うしかない人々の怒りと悲しみが剣となり火となり血を流し、燃え広がる様を想像した。

 東北地方は、今や疑うこともなく日本というクニのいち地方だ。だが、今の姿になる前に流された血と涙を、呰麻呂に剣を取らせ多賀城に火を放たせた憤懣を、私は覚えておきたいと思った。

(ちなみに、こうして「日本人」「土人」「外地人」の境界を操作し、アイヌ琉球の人々、台湾や朝鮮の人々の権利を奪うことは近現代でも度々行われた。詳しくは下の書籍が面白かったので是非。)

 名前をつけなければ失われていくものがある。名前をつけることで奪ってしまえるものがある。そんなことを考えながらひやむぎを啜る。うん、やっぱそうめんとはまた違った美味しさだなあ。暑くなってきたので皆様も是非、なんておすすめして今日はここまでで許されたい。終わり。

 

 

#4「ダナンの白鳩」

 

 

 ダナン、という美しい街がベトナム中部にある。穏やかな海と安い物価が魅力的な発展途上のリゾート地だ。フランス植民地時代の絢爛な歴史的建造物が並ぶ観光地、ホイアンからも近く、近年インバウンド人気が高まっている。

 そのダナンに、二年前、日本なら2万は軽くする宿に400万ドン(約2000円)で友人と泊まった。部屋は広く、ビーチまで徒歩5分。なのに屋上にもプールがついていた。受付のお姉さんは甲斐甲斐しく、タオルを忘れたまま降りてくるうっかり屋の海外観光客二人にも、ふかふかのタオルを持たせビーチへと送り出してくれた。立ち並ぶリゾートビルと工事現場が作る凸凹の空を横目に、ペプシのロゴがでかでかと貼られたゲートをくぐる。

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 海は温かく、二人で散々はしゃいだ。夕方になり、そろそろホテルへ戻ろうかというその時、私の目は吸い寄せられるように一点へ釘付けになった。

 白い艶やかな翼だった。ふっくらした純白の体からすらりと伸びる足はしかし、黒ずんだ排水溝のコンクリの上に立つ。彼は、あるいは彼女は、こつこつと拳大の大きさのパンをつついていた。まだ食べられるくらい新しいパンだ。黒ずみの中で捨てられたパンをつつく彼/彼女を見た瞬間、私の頭に浮かんだのは、どうしてか「白い鳩だ」ということだった。

 

 

 ベトナム、という国名を聞いて何を想像するだろうか。フォーや生春巻きといった食文化。密集したバイクの渋滞。はたまた、ニュースを見ている人であれば技能実習生、なんてワードも思い出すかもしれない。

 ではベトナムを知る人の何割が、ベトナムのねじれた過去と現在を想像できるだろう。隣国であり中越戦争でも戦った中国への感情は決して良くない。だが取引額トップの相手であるがゆえに無視はできない。20年のベトナム戦争で傷ついた大地には未だ不発弾が埋まっているけれど、最大の輸出国であるアメリカは大好きだ、と言う。まるで日本がそうであるように。

ベトナムはね、若い人が多いでしょう。だから過去のことにはあまりこだわらないです。平和が好きだから」

 ツアーガイドのおじさんがあっけらかんと言い放った言葉を思い出す。だが、過去をおざなりにすることは必ずいつの日かのしっぺ返しを連れてくる。おじさんがどれほどにこやかに私に話を向けても、私の出身国が70年前におじさんの国を侵略し、物資を強奪し、200万人を餓死させた事実は消えないのだ。

 「経済成長」という誰かが放って捨てたパンをつつくために諸々の問題を後手に回してきたのは日本も同じだ。そのせいで現在、歴史認識や安全保障の議論が噴出している。今日本が平和を議論できるのは経済発展がひと段落したからだという意見もあるだろう。けれど、豊かさは平和の一条件でしかないと私たちは知っている。

 今思えば海辺なのだからあの白い鳥はカモメやウミネコの類だったのかもしれない。けれど私にとっては鳩だった。平和の白い鳩。そして彼が、つつくパンを捨てたのは、他でもない「私」だ。

 最近のコロナ禍で、勤務先の7割が労働基準法に違反した事業所だという技能実習生はベトナムに帰れず、当初予定していた技術の習得とは全く違う業務を行なっていることもままあるという。

技能実習生働く事業所、対象7割に法令違反 昨年調査」【中日新聞web 2020/12/03】https://www.google.co.jp/amp/s/www.chunichi.co.jp/amp/article/164039

「コロナ禍 行き場失う外国人技能実習生 国に実態調査を要請」【NHK NEWSWEB 2020/11/09】
 

 だからこそ、ダナンのリゾートで見た白鳩の残像は先進国から旅行する私の責任としてきっと繰り返し思い出されるだろう。ホテルのお姉さんの甲斐甲斐しさと共に。少し真面目な話に疲れてきた。明日は早朝から海鮮を食べに行くので、今日はここまでで許されたい。終わり。

 

#3「汝、怒りを忘れるな(メメント・ムカムカ)」

 

 

「Oさんはコロナでオトコ掴んだよな。ほら、マスクで顔半分隠れてるから」

 外したとこ見たら違いすぎてビビる、と男の先輩がにや、と笑う。ヒヤ、と耳の先が冷たくなり、ざら、と心臓を無数の棘で撫でられたような不快さが胸一杯に広がる。結婚の経緯は彼女とそのパートナーにしかわからない。だが、4月1日の初出社日、右も左も分からない私に声をかけてくれたのはOさんだけだった。

 家に帰ってベッドに横になると、ぼろぼろ涙が溢れた。全てが悔しくて腹立たしいのに、声を上げられなかった自分が情けなかった。

 

 

 最近、周りのちょっとした言葉が気になる。

 例えば、見つからなかった物がすぐ目の前にあった時に家族が発した「障害者かよ」という揶揄。海外ドラマでゲイの犯人が元彼に対して鬼気迫る顔で復縁を求めた時の「怖っ」という姉の呟き。(当然、男女のカップルのシーンに対しては一度だってそんなことを言うのを聞いたことがない)

 そういうものを耳にした時のヒヤ、と冷たくなって、ざら、と心臓を撫でられるその感覚を、少しずつ言葉にしようと試みている。

 どうして、私たちの作る社会が十分なサービスを提供できていないせいで不便を被っている人々を「障害者」という言葉で嘲笑うのか。どうして、男性同士のカップルは「怖」くて、女性同士のカップルなら「エモい」で終わるのか。さっきの飲み会だってそうだ。女性は男性に美醜を評価されるものだと、誰が決めたんだ。

 

 ……とまあ、ここまでは長い前置きで、本題はこういうことを話した時に返ってくる、

「あなたって、よくもまあいろんなことに怒るね」

 という反応についてだ。それらは大抵、好奇や呆れの視線と共に目の前に現れる。あなた自身のことじゃないのに、よくもそんなに怒れるね、と。確かに私自身が見た目をどう言われた訳ではない。今のところ体に不自由はなく、セクシャリティもマジョリティ側に属している。

 世の中でも、常に怒っている人間に対して向けられるのは大抵が冷笑だ。自分で自分の機嫌を取れるのが良い大人、なんてキャッチコピーが蔓延り、コンビニには「頑張った私へのご褒美スイーツ」が並ぶ。

 別に、それが常に悪いという訳ではない。ただ、この社会はあまりにも「怒り」をぞんざいに扱いすぎていると思うのだ。怒ってもいいこと、怒らなければいけないことは、確実にある。

 そう思うようになったのにはきっかけがある。

 

 大学生の時、米軍基地問題の演習を取ったのをきっかけに、沖縄へのフィールドワークに参加した。もちろん米軍基地問題に興味はあったけれど、半分くらいは初めての沖縄に浮かれていたかもしれない。

 そこで、あるリゾート地を訪れた。北部の国頭村に存在する「奥間レスト・センター」だ。日本に滞在する米軍兵士のための保養所で、美しいビーチに白い砂浜がよく映えていた。敷地内にはキャンプ場やレストラン、ゴルフ場なども入っている。

【実際に行った方の写真・ブログ↓】(スマホを変えた時に写真を残していませんでした)

https://mainichibeer.jp/okumabeachfest/

 本来は米軍人やその家族のみが利用できるのだが、沖縄在住の人が同伴であれば、一緒にゲートを通って中に入ることができる。音楽フェスなどが開かれる時にも一般の住民を招くと、民泊先のおじさんが言っていた。

 私はなんとなく、「共生」を感じて欲しくてこのリゾートに連れてこられたのだと思った。米軍人と沖縄住民が一緒に音楽を楽しむ。いいじゃないか、喜ばしいことなんじゃないかと。優等生的な答えを出そうとする悪い癖だ。

 中のスタバで友人と一緒にナントカフラペチーノを飲み、英語のレシートにはしゃいで外に出た時だった。カフェの外で、女性教授と民泊先のおじさんが立ち話をしていた。そのまま通り過ぎるのもと思い、留まっていると教授の顔がぐるん、とこちらを向いた。

「ねえ、腹立たない?」

 えっ、と固まった。その問いかけは余りにも突然で、私は空腹か尋ねられたのかと一瞬戸惑った程だった。固まったままでいると、教授は返答を求めていなかったのか、海の方に視線を投げながら息巻いた。

「私はすっごく腹が立つ。このビーチはね、沖縄で一番綺麗な海なんだよ。それを代々受け継いできた沖縄の人達じゃなくて、米軍が使ってる」

 びっくりして、何も言葉が返せなかった。教授は沖縄を専門に研究している訳ではなく、沖縄出身という訳でもない。でも、怒っていた。この海を観光資源として十分に使えたはずの誰かの代わりに。監視カメラに認証されなくても、祖父母から受け継いだ美しい浜辺で子どもを遊ばせることができた誰かの代わりに、怒っていた。

 「そんなことで」怒っていいんだ、とその時初めて気がついた。

 

 今先生をしている人、あるいはアルバイトで塾の先生などを経験した人にはよく分かってもらえると思うが、何かについて「怒る」には物凄いエネルギーが必要だ。しかも、そのエネルギーは問題の当事者であればあるほど大きくなる。

 だから私は、自分が不条理に巻き込まれた時に、誰かに一緒に怒ってほしい。「私もおかしいと思う」と声をかけられ、孤独でないことを力にしたい。いわんや、「そんなことで怒るな」なんて怒らなくて済んでいる人には言われたくない。

 だって、何かに怒らなくていい人は、常に問題の強者だ。同じ能力でも、女性より早く出世する男性。階段だけしか設置しないことで「不要な」「コスト」を削減できている公共交通機関。米軍基地を沖縄に70%押し付けることで成り立っている日本の安全保障。

 たとえ今は怒らないでよくても、いつか事故に遭って体が思う通りに動かなくなるかもしれない。あるいは自分の子どもや、親しい友人が不条理に立つかもしれない。そう想像した未来で、「そんなことでよく怒るね」と言われる側になるのは自分だ。

 

 毎日のニュースを見ていると、本当にぐったりすることばかりで、嫌になる。「国民」の虚像をでっち上げ、複数の国にルーツを持つ人間の多様性への想像を失わせるオリンピックを、政府は日本国民の生命のリスクと引き換えにしてでも「誰かの」平和と希望のためにやりたくて仕方ないらしいし、人間の価値を生産性で決めつけるどこかの国会議員は今も辞めずに差別発言を繰り返している。その全てに怒ることには疲れてしまうけれど、「怒ったってしょうがない」と諦めることだけは避けたい。いつだって、怒らなくていい人は、問題をそのままにすることで、利益を享受している側の人なのだから。

 汝、怒りを忘れるな。メメント・ムカムカである。

 そう言えば、少し前に読んだ『水は海に向かって流れる』(第24回手塚治虫文化賞新生賞受賞)も、もっと怒っていいんだよ、という話だった。全3巻で読みやすいので、もっと怒れって言われてもなあ、とぴんと来なかった人には刺さる話かもしれない。

 明日からまた労働だ。記事で怒れと言う割に次長の不条理に対してはまだ何も怒れていないが、それはおいおいということで、今日はここまでで許されたい。終わり。

 

 

#2「宗教なんて無くなってしまえ」とあなたが言うので

 

 

(ホラーが苦手な方は※※※マークが出るまで飛ばしてください)

 

 

 気がつくとダイニングテーブルの前に着席していた。木目の正しいテーブルの上には、豪華な晩餐が並んでいる。私の他に、私の恋人と姉がそれぞれ座っていた。誰一人喋らない。とても静かだ。

 私はそこで、あることを告げようとしていた。仕事の都合で、これからの生活は転勤を迫られていること。恋人とは離れて過ごさねばならないこと。姉はキャリアを得る私の背中を押してくれたが、普段の態度から恋人の方はそれに耐えられないだろうことは想像がついた。

 転勤を告げると、彼女は目を見開き、食器を取り落とした。髪を振り乱し迫ってくる恋人の形相は恐ろしく、命の危機すら感じた。私は助けを求めようと姉を振り返る。だが、ついさっきまで一緒にいた姿は忽然と消えていた。

 私は胸騒ぎを覚えながら家中を逃げ回り、姉を探した。辿り着いた風呂場で、姉は浮いていた。水の中に体を沈め、目を剥いていた。思考が白く塗り潰される。私は無我夢中で姉を引き摺り出し、蘇生措置を行った。心臓マッサージを十回。人工呼吸を二回。それを延々と、延々と繰り返す。どれだけの時間が経っただろう。姉の口から少量の水が噴き出し、瞼が揺れる。間に合った。間に合ったんだ。どっと安堵が体全体に落ちていき、自然と涙が目から溢れ出した。姉を殺そうとしたはずの恋人のことも完全に忘れて、恐怖からの解放に震えた。

 

 

※※※

 

 

 そこでようやく目が覚めた。じっとりと背中に冷たい汗をかき、湿った額を指で拭う。ここは家で、今は朝で、愛の重い恋人も存在しなかった。むくりと体を起こす。その後まず私がした動作といえば、スマートフォンで「夢占い 恋人 家族 殺す」を検索することだった。

 夢占い、というのはその日見た夢の内容で今の状況や未来に起こり得る兆しを占うというものだ。例えば「追いかけられる夢」を見る時は「強いストレスやプレッシャーがかかっている状態」だとか、「転ぶ夢」を見ると「これから乗り越えるべきアクシデントが起きる予知である」とか。まあ、はっきり言ってかなり胡散臭い。科学的な根拠は今のところ聞かない。(もしあったら教えてください)

 世の中には占いを毎朝チェックするような熱心な人もいるが、私は違う。正直、エンタメ程度にしか考えていない方の人間だ。そもそも血液型で人間が4タイプに分かれる道理も、星座で12タイプに分かれる道理もない。「真面目で、正義感が強く、理想主義的」なんて書かれれば、たとえ正義感が特別強くなくとも、一つか二つ特徴が当てはまれば、人は自分のことだと認識する。そうやって、占いというのは必ず何かが当てはまるようにできている。

 そして不思議なもので、「あなたは優しい人」と言われ続ければ優しくなるのが人である。トイレにある「綺麗に使っていただきありがとうございます」の張り紙と同じだ。

 それでも、悪夢から覚めた私の最初の動作は夢占いを検索することだった。この悪夢に何か原因や意味があってほしいと祈って、まるでキリスト教徒やイスラム教徒、仏教徒……世界様々な宗教を信じる人々が朝日の中で礼拝をするように、私はベッドの上でGoogleの検索ボタンを押したのだ。

 

 

 高校生の頃に交わした、なんてことのない会話を今でもよく思い出す。当時通っていた予備校の面談で、私はそこの社員と雑談していた。K先生は優しく、生徒一人一人の顔と名前を覚えるのが得意な、良い人だった。

 そのK先生が突然、「宗教なんて無くなってしまえばいいのにな」と言った。宗教があるから、今も人は争い続けているんじゃないか、と。どんな話の流れで宗教の話になったのかは覚えていないのに、自分の非現実な空想を可笑しく思うK先生の弧を描いた唇ばかり覚えている。

 瞬時に浮かんだ「違う」という言葉が声となって咄嗟に口から飛び出た。けれど何が違うのか、その説明は高校生の私には続けられず、ただもどかしく口籠った。何を言えば良かったのか、何が正しいのかは今もわからない。だから考え続けている。

 その一つの、答えらしきものを考えたので、お伝えしてもよろしいでしょうか、K先生。

 宗教とは、信心とは、誰にも傷つけられない、「人の心の最後のよすが」なのではないだろうか。自分の力を信じてもどうにもならない時、人は何かを信じたい、と願う。燃え広がる戦火の中、逃げ惑う人々が神様、と呟く。合格発表の掲示板の前で既に試験を終えた受験生が神様、と祈る。そこには悪夢に魘された人間が必死に夢占いを調べるような、誰にも咎められない、心の拠り所が残されている。

 日本人は無宗教、という論が間違っていることは既に様々な先人が指摘しているが、その通りだと思う。神や仏や姿形として表れているものでなくとも、私たちは寺社に行けば手を合わせ、行かなくとも超常的な「良いことを起こしてくれる何か」を信じようとする。その心の動きは誰にも奪えるものではないし、奪ってはならない。争いが起こることは、その次の問題だ。

 ……とまあ、考えてはみたものの、もうK先生は名前も覚えていないし(K先生=仮の先生)、連絡を取る術もないからここに書いているのだが。

 

 ちなみに、恋人が家族を殺す夢の夢占いの結果は「親しい家族からの自立を図ろうとする心理」らしい。んなアホな、と思う反面、新生活を始めた今の状況と合っていると言えなくもない微妙な結果であることを報告して、今日はここまでで許されたい。終わり。

 

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#1 「やっぱKing Gnuってすごいわ」

 

 

 午後九時。ふと思い立って友達に電話しようと思った。夕食も食べ終わり、見る予定のテレビもない。資格試験の日程が三日後に迫っていたが、この時間から勉強するつもりもなかった。

 一ヶ月ぶりに話すその名前を友達検索欄に入れる。仲の良かったはずの友達の名前を検索しないといけない時ほど、すっと冷えていくような気持ちになることはないだろうと思う。そこにはただ単純な「最近話してない」という事実以上に「きっと探してもすぐ出てこない」という乾いた諦めがある。

 就職して二ヶ月が経った。入社したての頃はしきりに緊急招集だの何だのと言って夜に集まっていたグループ通話もめっきり落ち着いた。最初にできた、仕事が辛い話はもうしないだろうと思う。辛いことを辛いと言うのは辛い。人と比べて、どうして自分だけが、と哀れむ時期もとうに過ぎてしまった。そして何より、辛いことにも人は慣れていく。適応力の生き物、というと聞こえがいいが、惰性の生き物であるとも言える。ナマケモノ、にナマケモノとつけた人はどんな気持ちだったんだろう。人間と区別する意図でつけたなら随分傲慢な話だと思う。

 電話かけていい、と文字を打つ。しばらくして既読がつき『月曜日以降なら!』と返ってきた文字列を見た時には滲みるように胸が痛んだ。

『今日でもいいけど!』

『あ、じゃあ今かけるわ』

 今日でなければかけられない気がした。多分あさってやしあさってでは駄目だった。

 一ヶ月ぶり、いや二人きりで話すのは数ヶ月ぶりだろう友達の声音は、硬かった。どうしてかけてきたのかわからないためだ。私も答える術がない。ただ何かに駆られるようにかけただけだ。

 最近の近況やら下らない話をして、だいぶ空気がほぐれてきた時、ふと、声が漏れ出た。

「体調は大丈夫なの」

 あっ、と私は心の中だけで叫んだ。言ってしまった、という感情の前に自分がどれくらい自然に発話できたのかが気になった。友達は朗らかに今は問題ないよー、と答え、私もそうなんだ、良かった、と当たり障りのない返答をしたはずだが、あまり覚えていない。そうして、二時間の通話は終わった。

 

 

 「元気だ」という声を聞いて満足したかった訳ではないことには、電話を切ってから気が付いた。

 きっかけは、こうだ。SNSで、普段明るい彼女の呟きを見つけた。体調が悪くなっている、という淡々としたツイートの他に、食事制限を始めた時期の親との関係について書いてあった。彼女は中高生の頃から難病を患っているが、高校三年生の時のクラスで私が知った頃には、既に小康状態にあった。治療法もなく、いつ悪くなるかもわからない状態だと聞いたことはあるが、生き生きとして清しい、初夏の木々のような彼女を見ていると、ナンビョウ、という言葉とは無縁のように感じていた。

 いわんや、きっとよくなると声をかけた親に対して「無責任なことを言うな」と泣いて喚いたという姿など想像できるはずがない。それくらい、私の記憶の中の彼女はいつも楽しそうで、愚痴や不満を言うことがあっても、結局口の端は笑っているような、そんな子だった。

 衝撃を、受けたのだろうと思う。彼女が悲しんだり怒ったりするという当たり前の事実は元より、当たり前の事実を想像してこなかった自分にも。その呟きを見た瞬間、ぴしゃりと雷に貫かれたような気持ちになって、私は即座に何かしなければと焦った。何か話さなければ。でも何を。大変だったね? そんな言葉は何も知らないのに言えない。じゃあ教えてくれ? それも高圧的で、何のためかもわからない。そもそもその人の辛い時期を知ったところで私が同じ辛い気持ちを経験するわけじゃない。どこまでも想像でしかない。というか、彼女が何かを辛いと私に話してくれたことはあっただろうか。そういえば一緒に旅行に行った時、私はどれくらい彼女の体調を気にしたっけ。

 そういうことをぐるぐると考え始めて、結局何もできずに残されていたしこりのようなものが、土曜の午後九時になって急に迫り上がって来た。しこりは私の指の関節となり、無い喉仏となり、メッセージを打ち、発音した。

『久しぶり』

 

 

 愚痴を話してほしい、と思うことには様々に身勝手な作用があるのだと思う。頼る人間に選ばれた感覚、話すことで楽になってほしいという願い、自分がこの人を苦しめている訳ではないという安心。私だって、私を苦しめている職場の次長に「仕事が辛いです」とは言わない。

 でもそれらと同じくらい、人の悲しみを、怒りを、嫌悪を知りたいと思う。何を重大に思うのか、何に無関心なのか知りたい。大切なこの人がいつ、どんな時に傷つくのか知りたい。そして、何より同じ方法でこの人を傷つけたくない、と思う。

 彼女が好きだ、と思う。優しく頭が良く、人を傷つけない彼女を傷つけて、自分から離れていってしまったら、きっと後悔する。

 LGBT法案に反対・差別する人の「少子化が進む」論にはほとほと呆れるが、逆に愛の力を信じていてすごいな、と捻くれた私は考えたりする。だって、少子化が進むということは、異性愛者が同性愛者になると、愛に性別は関係がないと信じていることにならないだろうか。(勿論、最初から自分と同じ性別が好きで生まれてくる人や、自認する性別が社会に括られた二つに合わない人がいる上、国家から出産を勧められる道理もないので筋違いな論なのだが)

 私は、友愛と恋愛の違いが大きいとは思っていない。性的衝動がなければ愛ではない、とも思わない。好きだからそこにいてほしい、と思う。傷つけて遠ざかられたくないから、たとえ今は未熟でも、いつかは彼女がちょっとした傷でも見せてくれるような人になりたい。

 

The hole

The hole

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 やっぱKing Gnuってすごいわ。『The hole』で「僕が傷口になるよ」って歌っちゃうんだもん。藝大卒だからか。違うか。才能と努力の方向を時代と合わせてるんだろうな。ヤンキーが藝大を目指す漫画、『ブルーピリオド』がめちゃくちゃ面白いということをお伝えして、今日はここまでで許されたい。終わり。