由利カオル

目標週一 実質月二 エッセイなど

#11「死に場所を選べない僕らは」

 

 

 呪術廻戦やら鬼滅の刃やらヒット作の漫画を読んでいない。といっても、漫画は好きなので初めから読んでいなかった訳ではなく、途中で読むのをやめた。Not for meであることに気が付いたからである。

(ちなみに、こういうコンテンツの好き嫌いを話すと絶対に不快に思う人がいるので先に言っておくと、私があなたの好きな作品を好きじゃないからと言って、あなたや、あなたがそれを好きな気持ちを否定している訳ではない。同様に、私がそれを好まない気持ちを誰にも否定することはできない。)

  両者の共通点として、魅力的なキャラがどんどん死んでしまう、というのは思いつくが、同じく人がバカスカ死ぬ(!)進撃の巨人に特別忌避感を持つことはなかった。なんの差なんだろうな、と思っていたのだが、死の描き方の違いだろうか。進撃の死が突拍子なく、無惨に訪れる死だとすれば呪術や鬼滅の死は、「素晴らしい人生の結果としての死」である。誰かのために、世界のために、人生を燃やし尽くしたその絶頂に死は訪れる。読者は彼らの死に、生き様に心を打たれ、涙し熱狂する。

 なんだかそういうの、最近はちょっと辛いな、疲れたな、と思ったのである。素晴らしい死なんて、きっと現実世界には存在しない。この間、遠方に住む祖母があんまりにも酷い状態で危篤になった時、私は、祖母の最期がこんなものであってはならないと思ってさめざめ泣いた。祖母の目に最後に映る光景は娘や孫たちに囲まれたものであってほしいと思った。今は持ち直しているが、いつまた悪化するかはわからない。コロナのせいで会いに行けないのがとても辛い。

 そういう死を身近に感じたばかりだったから、コロナ禍の、いやそうでなくとも惨めな私たちの生身の死を遠ざけたくて、架空の世界にそれを求めてしまうのはグロテスクな感じがした。あと呪術は推しキャラ死んだし。

 

 ……なんて思っていたはずなのだが。この前、映画『ガタカ』を見て、私はユージーンのとった選択に涙し、苦しみ、結局見終わった後もそればかり考えていた。監督の意図は明かされていない。結末は各人の解釈に委ねられている。

  ユージーンは己の惨めさから逃れられなかった、という見方もできるし、彼の人生の絶頂は死の直前に来ていたのだという見方もできる。そして私は後者である、と思いたかった。彼は満足し、これ以上の喜びもなく老いさらばえる前に自分の期限を切ったのだ、と。思った後に、自分の内側にある「素晴らしい死」への憧れに打ちひしがれた。

 自分の中に、もし人生の絶頂が確実にあり、それが二度と来ないとすれば、そこで死んでしまいたいという願望が確かにあったのだ。いくらコロナウイルスが蔓延しているからといって、幸運と努力の成果として感染しなかった多くの人は、人生100年時代を生きていくことになる。恐らくベッドに横になったよぼよぼの状態で、人生最高!となっている可能性は1%未満だろう。数々の人生最高!を通り過ぎ、下り坂を転がりながら息を引き取る可能性の方が高い。なら絶頂の瞬間に終わってしまいたい。「素晴らしい死」を迎えたい。

 どうしてこんなに人間は死に意味をつけたがるんだろう。その答えになり得る話を、この前見たTRPG動画で精神科医の名越先生が言っていた。


(言及箇所は1:18:22辺りから。本編全て大変面白いのでフルでの視聴がおすすめ)

 名越先生曰く、「人間はサクリファイス(犠牲)を求めているんです。それは人間が、死の恐怖に打ち勝つ可能性を種族として担保しておきたいから」。

 それを聞いてふと、以前見た戦争ドキュメンタリーを思い出した。太平洋戦争中、「皇軍」として戦地に送られた朝鮮人兵士の数は約20万人。その生存者の方がインタビューにこう答えた。

「日本人の兵士はお国のため、天皇のために死ねたでしょう。でも私たちは誰のためにも死ねなかった。死ねなかったですよ」

 あまりにも重い言葉だったので、ここだけよく覚えている。誰かのために、何かのために死ぬことを許されなかったことの苦しみが、その言葉と表情に皺を作るように滲み出ていた。

 戦争の終結日、とされる8月15日も今年で76回目となる。私たち人間が自分で死に場所を選べなくなって久しいが、あの日の兵士たちがお国のために、と戦地に向かったのは洗脳的な軍国教育を受けたからというだけではなく、私たちの内側に隠されている、蠢いている「素晴らしい死」への憧れが戦争に結びついたから、とも言えるのかもしれない。

 その憧れに打ち勝つ術は、もう少し、ほんのもう少し先に「人生最高!」がまだあるはずだ、と自分を騙し騙し進んでいくことしかないのだろう。さっきはああ言いましたけど、1%くらいの確率で、よぼよぼのおばあちゃんの歳になってもスーパーメカニックサイボーグおばあちゃんになってる可能性もあるわけですからね。  

 

 そんなことを考えながらこの前洗濯物を干そうと網戸を開けたら、カサッという音と共に蝉が上から落ちてきた。「うわァッ」とリアクション芸人並みに飛び上がり、その後半泣きになりながら新聞紙に乗せて死骸を外に出してやったのだが、奴も静かな私の部屋のベランダを死に場所として選んだというなら許せる……訳がない。絶対許せん。人の家で死ぬな。皆さんも部屋を出る時は周囲に不審者と蝉が張り付いていないか気をつけてくださいね、と注意喚起したところで、今日はここまでで許されたい。終わり。