由利カオル

目標週一 実質月二 エッセイなど

#14「読書とヨリを戻した話」

 

 

 読書の秋である。常々思っていたが、食欲の秋とかスポーツの秋とか、秋につける言葉を考えた人はよっぽど秋のことが好きだったんだな、という感じがする。四季の中で一番贔屓していると言っても過言ではない。「昼寝の春」とか、「滝汗の夏」とか、「布団から出られずの冬」とか、いろいろ他の四季にも付けられそうな修飾語はあるのに、目に見えて秋のものが多い。というか食欲に限っては、年中無休であるのに、わざわざ秋につけている。今日はその欲張りで愛された秋、に冠せられた読書の話だ。

 本が好きな子、本が嫌いな子、それぞれいると思うが、どちらかと言えば私は、とても本が好きな方の子どもであった。読み聞かせやら何やらを経て、小学校三、四年生の時に図書室の本を多く貸りた人ランキングで三番くらいに入ったのをきっかけに我武者羅に本を読み耽った。ちんけなきっかけだが、自分が沢山本を読んでいると認められることが嬉しく、それでも学校で一番ではなかったことにもムキになっていた。一番ひどかった小学校高学年の時には行きの道で歩きながら一冊読み、授業中に一冊読み、帰り際に図書室で本を借りて読みながら帰っていたくらいだ。恥ずかしいし危険な小学生であった。生きていることに日々感謝である。

 しかしそれほど夢中になっていた読書も、高校生になり受験勉強のウェイトが重くなるごとに足が遠ざかっていた。受験という重苦しい審判から逃れるため、私が駆け込んだのはスマホゲームが妖艶に手招きするホテルで、読書が晩飯を作って待っていてくれる堅実なアパートではなかった。僅かなプレイ時間で報酬を与えてくれるゲームの快楽は凄まじく、ある時は審神者、ある時はアイドルのマネージャー、ある時はカルデア唯一のマスターになり、あの手この手で現実逃避した。ちなみに人理修復はセンター試験前の一週間で成し遂げた。親に見られたら泣かれる記事1位が決まった瞬間である。

 それから大学生になり読むのは学術に関わりのあるものばかりになり、更に趣味の読書なんて存在は遥か遠くの町の風景になってしまった。勉強の本を読んだ後、同じ体勢で趣味の本を読むかと言われれば、もう読まなかった。私にはもうNintendo Switchという愛人がいて、血の同窓会を数年後に控える三つの学級の生徒も、インクを撒き散らすイカも、やたらと褒めてくれる幼馴染兼ライバルもいたからである。

 大学生の時でさえそうだったので、社会人になれば猶更、労働に疲れた頭に活字が入るスペースはなかった。出勤し、退勤し、休日は一人暮らしに苦戦し、資格の勉強に追われ、残った時間でゲームにのめりこんだ。

 有り体に言えば、もう長い間、私と読書の関係は倦怠期であった。まるで熟年離婚秒読みの夫婦のように冷え切っていたのである。秋だけに……いやなんでもない。

 では、そんな状態だからといって私が家に置いてきた読書のことをいついかなる時間も忘れていたかと聞かれると、違う。むしろ読書から遠ざかれば遠ざかるほど読書が与えてくれた時間、安らぎ、没頭感、……全てを渇望し、読書しない罪悪感を抱くようになった。何せ、語彙が減ったのだ。文章を書くのが趣味なのに、何か文章を書き連ねるごとに「これは前使った表現な気がする」「高校生の頃の方が上手く書けた」などと思い悩むことになった。体を脂肪でぶよぶよにさせ、床一面とっ散らかして初めて家を任せていた妻の重大さに気づく中年男よろしく、私は読書に焦がれるようになったのだ。

 今日、久しぶりに朝早く起き、家の掃除をした。一週間畳んでいなかった洗濯物を畳み、天板を物が埋め尽くしていた机の上を片付けた。足裏に不快さを貼りつかせていた床を綺麗に拭き、ずっと閉め切っていた窓を開けた。秋の風が吹き込んで、晴れた空から降り注ぐ光は柔らかだった。時計の針はまだ11時半で、「今日しかない」と私は思った。買って開かないまま半年が過ぎたハードカバーを鞄に忍ばせ、テラスのあるカフェの、日の当たる席に座った。注文を取りに来た店員が去り、人々の囀る声がした。

 そっと表紙を開く。目次が目に飛び込んだ時、心臓が高鳴った。久しぶりに帰ってきた。そんな感覚がした。

 今、ブログの記事を一か月ぶりに更新している。話はこれで終わりだ。

 

 

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